土光敏夫氏の生い立ち

土光敏夫氏

土光敏夫氏

土光敏夫氏は、昭和を代表する財界人であり、数々の企業の再建に貢献した辣腕経営者で、行政改革の旗振り役としても活躍しました。

1896年、岡山県生まれ

土光氏は、明治29年、岡山県に生まれました。左は母親の登美、写真は1歳のとき。

土光敏夫氏と母 登美氏

父・土光菊次郎、母・登美と二男三女の土光家

父・土光菊次郎、母・登美と二男三女の土光家

「個人は質素に、社会は豊かに」という行革の信条は、信心深い母・登美の教えによるもので、その教えは子供のころから刻み込まれたものでした。(左端が本人)

大学時代

1920(大正9)年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業しました。(上列左から2番目が本人)

土光敏夫氏 東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業

石川島重工と播磨造船所の合併調印式

石川島重工と播磨造船所の合併調印式

大学卒業後、株式会社IHI(アイ・エイチ・アイ)の前身である東京石川島造船所に入社。石川島重工業社長時代の1960(昭和35)年、播磨造船所との合併を実現しました。(右が土光敏夫社長、左は播磨造船所の六岡周三社長)

東芝社長から経団連会長に

1965(昭和40)年、経営難に陥っていた東芝の社長に就任し、見事再建を果たしました。
「社員はこれまでの3倍頭を使い、重役は10倍働け。私はもっと働く」と宣言したほか、「会議は立ったままやれ」「能力があるから地位につけるのではなく、地位について能力を発揮させよ」と、現代でも通じる「土光経営哲学」を説きました。
その経営手腕を買われ、1974(昭和49)年から経団連会長を2期6年にわたって務めました。

土光敏夫氏、東芝社長から経団連会長に

愛称は「メザシの土光さん」

メザシの土光さん

土光氏は、メザシが主菜の一汁一菜の夕食に、農作業用のズボンに古ネクタイを着用するなど、質素な生活で知られ、財界の頂点である経団連会長になっても、バス、電車通勤でした。
(厳しい表情で現場の声を聞く東芝社長時代の土光氏=昭和47年、東芝深谷工場)

第2次臨時行政調査会長時代、中曽根総理へ答申提出

1981(昭和56)年には鈴木善幸首相に請われ、第2次臨時行政調査会長に84歳で就任。「土光臨調」と呼ばれ、全国で行革国民会議が開かれました。
「増税なき財政再建」を旗印に、国鉄、電電公社、専売公社3公社の民営化を打ち出し、中曽根康弘首相(当時)に答申を提出しました。その3社は現在のJR、NTT、JTとなっています。

第2次臨時行政調査会長時代、中曽根総理へ答申提出

1980(昭和60)年、第1回土光杯弁論大会開催

第1回土光杯弁論大会開催

土光杯弁論大会は「日本を良くするためには若い人の力が必要」という土光さんの言葉を受けて誕生しました。
今も受け継がれている土光杯トロフィーは、土光氏の私費で作られたものです。第1回には会場に駆けつけ、「行革は政府や行政に頼むものではない。若い人が自分のこととしてやらなければ。ぜひ先頭を歩いてもらいたい」と青年たちを励ましました。

晩年の土光敏夫氏

両親が日蓮宗信者で、幼いころから読誦した法華経を、晩年も朝5時に起きてあげるなど、自らは修行僧のような暮らしを続けながら、世のために尽くしました。
土光氏の母、登美は、女子教育の必要を唱え、1942年に橘学苑(中学・高校=現在は共学、横浜市鶴見区)を創設しました。土光氏はその理事長兼校長を務め、そこへ収入の大半を投入し、次代を担う若い世代の育成にも尽力しました。
土光氏は臨調の若いスタッフに、こんな言葉を残しています。「行革というのは君、10年先、20年先を動かす君たちが考えることだ。その時の日本を、君たちがどう動かしているか、俺は地獄の釜の底から見ているぞ」。
1988(昭和63)年に91歳の天寿を全うした土光氏の遺志は、いまも多くの人に受け継がれています。

晩年の土光敏夫氏