雑誌正論掲載論文

改憲勢力3分の2になったのに… どうしてそうなるの? 左曲がりの憲法改正論

2016年09月15日 03:00

大和大学専任講師 岩田温 月刊正論10月号

 戦後日本政治の中心的な議論であり続けたのが日本国憲法である。保守派の多くは、米国に強制された押しつけ憲法であるという事実を強調し、九条で表された「平和主義」を欺瞞以外の何ものでもないと批判し続け、改憲、あるいは、自主憲法の制定を訴えてきた。これに対して、左派は、憲法の制定過程については口をつぐみ、九条に表された「平和主義」こそ戦後日本の理念であると護憲の旗を掲げ続けてきた。

 しかし、昨今、戦後思潮の流れに逆らう一風変わった改憲論が登場した。戦後の多くの改憲論者は、日本国憲法の理念とする「平和主義」そのものに関して、否定的な立場から改憲を主張してきた。だが、新しい「改憲論」は、日本国憲法の唱える「平和主義」を積極的に評価し、この「平和主義」をさらに推し進めるために「改憲」が必要だと主張している。小論では、この「平和主義」をさらに推し進めるという「左折の改憲論」の是非について論ずるが、その前に、改めて憲法九条と自衛権の問題について確認しておきたい。

 戦後日本政治の全てを呪縛してきたもの、それが日本国憲法である。とりわけ、第九条こそが、善くも悪くも戦後日本政治の中心に存在し続けた。この日本国憲法が極めて不幸な憲法であると思わざるをえないのは、その支持者たちが熱烈に守り抜こうとする第九条の精神が既に死んでいるからである。

 改めて憲法九条を読み返してみれば明らかだが、日本国憲法では日本の「交戦権」を否定し、「戦力」の不保持を謳っている。本来であるならば、どのように解釈しても「自衛」のための「戦力」すら保持できないのが日本国憲法なのだ。憲法第九条の本来の意味を知るためには、後述する「憲法制定権力」を掌握していたマッカーサーの本来の意図を知るのが手っ取り早い。マッカーサーは、日本国憲法の三原則の一つに戦争放棄を掲げ、次のように記している。

「国家の主権としての戦争は廃止される。日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を保有することは、将来も許可されることがなく、日本軍に交戦権が与えられることもない」

 ここでいう「今や世界を動かしつつある崇高な理想」が何を意味するのか、この問題についても後述するが、取り敢えず確認しておく必要があるのは、「自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄する」と明言している点である。要するに日本は、自国を守るための自衛戦争を行うことが不可能だとされたのである。

「憲法制定権力」の保持者たるマッカーサーの意図に忠実であらざるを得なかった吉田茂は、国会において、「自衛権の発動としての戦争」も放棄していると主張した。これに対して、日本共産党の野坂参三が批判を加えた。野坂は「侵略戦争」と「自衛戦争」を区別し、後者を擁護したうえで、「侵略戦争」のみを放棄すべきではないかと問うたのだ。

 この野坂の批判に対して、吉田は驚くべきような答弁をしている。近年の戦争の多くは「自衛」の名の下に遂行されたのであるから、「国家正当防衛権」による戦争を「正当」と認めることは、「有害」だというのだ。

 吉田は頑なに「自衛戦争」まで否定し続けた。

 こうした吉田の態度が一気に変わるのは、マッカーサーが1950年の元旦に「日本国民に告げる声明」において次のように述べたからだ。

「この憲法の規定は、たとえどのような理屈を並べようとも、相手側から仕掛けてきた攻撃に対する自己防衛の冒しがたい権利を全然否定したものとは絶対に解釈できない」

 昨日までの態度をかなぐり捨てた憲法解釈の急転回である。自衛戦争すら禁止されると解釈されていた憲法九条が、実は、自衛の権利を認めた条項であったというのである。この日以来、日本の安全保障論議は抽象的な哲学談義の様相を呈することになる。「戦力」を保持せず、「交戦権」も持たない国家が、「自己防衛の冒しがたい権利」を持つというのだから、議論が複雑化することは避けがたかった。

 結局、日本は憲法を改正することなく、無理な解釈の上に無理な解釈を重ねるという言葉遊びに終始することになる。「戦力」の不保持が憲法で定められている以上、日本の自衛隊を「戦力」と呼ぶことは不可能だ。だから、自衛隊は「戦力に至らない自衛力」と苦し紛れの言い訳めいた解釈を作り出した。

 現実問題として、敵国が我が国を襲えば、自衛隊が出動する。しかし、我が国は「交戦権」を保持していない。仮に侵略国家からの侵略を防ぐためであれ、国家が一戦を交えるのならば、それは「交戦権」行使ではないかと思うのが常識だが、我が国の防衛政策は常識では理解できない。「交戦権」は、占領地域の施政まで含む幅広い権利であると無理やり解釈し、「自衛のための抗争」は「交戦権」の行使に当たらないという摩訶不思議な解釈を構築したのだ。これ以降、日本の防衛政策、安全保障政策は、神学論争とでもいうべき奇妙な概念の解釈によるものとなった。

 さて、何度か言及した「憲法制定権力」について触れておこう。「憲法制定権力」とは、憲法を憲法足らしめる力のことだ。誰が、憲法を憲法足らしめる力を保持しているのか、これが重要な問題なのだ。

 カール・シュミットは「憲法制定権力」について次のように定義している。

「憲法制定権力は政治的意思であり、この意思の力または権威により、自己の政治的実存の態様と形式について具体的な全体決定を下すことができる、すなわち政治的統一体の実存を全体として決定することができるのである」(シュミット『憲法論』みすず書房、98頁)

 すなわち、その国家をいかなる国家とするのかを決定する「政治的意思」をもつ存在こそが、憲法制定権力の保持者に他ならないのだ。そして、シュミットによれば、これは「政治的意思」であり、それを拘束する規範は存在しない。

「憲法は、内容が正当であるために妥当するところの規範に基礎を置くのではない。憲法は、自己の存在の態度と形式についての、政治的存在から出てくる政治的決定に基づいている。『意思』という言葉は─規範的または抽象的な正当性に依存するようなものでは全くなく─妥当根拠として本質的に実存するものをいい表す」(同右、99頁)

 平易に言い換えるならば、憲法制定権力を拘束する存在はなく、ある自由な政治的意思のみが憲法を制定する。憲法は、その内容が優れているから憲法となるのではなく、「憲法制定権力」を有した存在の自由な「政治的意思」の決断によって憲法となるのだ。

 日本国憲法の文脈で置き換えてみたら、こういうことになる。日本国憲法は、その内容が素晴らしいから憲法となったのではない。圧倒的な軍事力を有するマッカーサーが「憲法制定権力」を保持していたため、マッカーサーの自由な意思と決断によって、憲法は憲法として成立したのだ。

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■ 岩田温氏 昭和58(1983)年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大大学院政治学研究科修了。専攻は政治哲学。政治学者として言論活動する。著書多数。近著に『平和の敵 偽りの立憲主義』(並木書房)。