雑誌正論掲載論文
福島第一原発 私の事故処理作業体験
2016年03月25日 03:00
近現代史研究家 松尾一郎 月刊正論4月号
五年前の三月十一日、地震発生を私は自宅で迎えた。TVでは津波の被害映像が流れ、東京では携帯電話がつながらなくなった。都内の各駅では帰宅困難者が溢れ、一時的とは言え暮らしは大混乱に陥った。翌日、私は福島第一原発1号機の水素爆発の模様をTV画面で見たが、その後まさかあの場所へ自分が行くことになろうとは、その時には夢にも思わなかった。
やがて放射能の危険性に関する話や被災地の被害状況などを耳にする度に、自衛官だった自分の経験もあるからだろうか、素朴に被災地を「助けたい」という感情が湧き上がってきた。そしてその想いは、被災地の状況が悲惨さを増すにつれて日々強くなっていった。
私は過去に火力発電所での作業経験があって何とか復旧作業員として被災地へ向かう事はできないかと思うようになった。そして旧知の会社へ電話を掛け、自分の思いを申し出ることもあった。
しかし、実際に原発作業員として従事できるまでには一年三カ月を要した。インターネット等の募集を見ては履歴書を書いて送るのだが、幾度送っても梨のつぶてで返答は無かった。ハローワークの募集にも片っ端から応募した。そうした試みを続けているうちに、二〇一二年五月になって、福島県郡山市の業者K社から「原発作業員として勤務しないか」と誘われた。この業者がいうには、福島第一原発(1F)で働くには書類作成や審査もあって一週間程度はかかる、それまで郡山の社宅に住んで待機しないかとのことだった。今まですべての応募にも梨のつぶてで唯一返事があったケースだ。早速、郡山市へ友人と一緒に向かう事とした。
五月二十七日朝に東京を出発してその日の夕方に郡山駅前近くの社宅に到着出来た。ところが着いた途端に業者から「待つ時間が惜しいので、人手も足りない。それまでうちの土木作業をやらないか?」と提案された。私達も「一週間程度ならばやりましょう」と納得し、河川改修工事や市内の川岸の藪の伐採、建物の取り壊し工事に駆り出された。
しかし約束の一週間が過ぎても土木作業は続く。一緒にいた友人は「話が違う」と言い出した。業者の対応に不信感を抱いた友人は十日経過したところで東京に帰宅してしまった。私は郡山に一人残されたが、「何とか原発作業員として従事勤務したい」という想いが強かった。それで我慢を続けながら土木作業を続けた。が、三週間目に入って流石に「これはオカシイ」と感じ始めた。私も「東京に帰る」と業者に言い、実際には数日前、偶然ネットで見つけた別の業者の原発作業員募集に応募してその業者に指定されたいわき市内の小さな温泉宿の宿泊所へ転がり込んだ。
後に聞いた話だが、郡山のこの業者はハローワーク等で募集し集めた人たちを原発作業員としてではなく土木作業員として従事させることを常套手段とし、下手をすれば長期勤務をした上に一度も原発勤務も出来ないまま帰されるケースが多発していると聞いた。また、この様な悪質な業者が福島県内でかなりの数横行し、労働トラブルが後を絶たないとも聞かされた。
とにもかくにも、小さな温泉宿にたどり着いた。それにしても温泉宿とは名ばかりで風情も旅情も無縁のバラック小屋に近い建物だった。そして一人月五万円の家賃を自己負担しなければならなかった。あらかじめ聞かされた話と少しでも違っていると身構えてしまう。もう騙されたくはない。
ただ、今回は誠実な業者だった。私はここに滞在しながら八月十四日まで原発作業員として従事できた。念願はかなったのだ。
早速私を含め六名がチームとなった。そして六月二十日から1Fに作業員として勤務することを告げられた。
しかしここでまたもや問題が発生した。原発作業員として勤務するには、放射線管理手帳(放管手帳)が必要だが、先の郡山市の業者が申請作成後に本人に断りなく勝手にどこかの業者へ流し手帳が行方不明になっていたのだ。手帳が無ければ1F勤務は出来ない。結局、今回お世話になった会社社長の尽力で手帳を取り戻し、何とか勤務できるようになったのだが、驚いたのは手帳が何故か縁もゆかりもない埼玉の業者へ渡っていたことだった。
手帳も取り戻して何とか二十一日から─それでもチームの面々よりは一日遅れとなったが─1Fへ入所出来た。これもあとから聞いた話だが、放管手帳の業者の管理がずさんで今も度々紛失トラブルが起きているという。
私にはじめ命じられた仕事は原子炉横の崖上にある歩道通路の瓦礫や散乱したガラスを集め撤去するというものだった。通路は原子炉へ続く途中階段があり天井の石こうボード等もバールを使って取り去った。
この場所は爆発から一年三カ月経っても瓦礫が数多く残っていた。ちなみに作業員は一日の被曝線量が決められていて線量が規定量を超えてしまうと作業は出来なくなる。しかし、実際に足を踏み入れてみてすぐにわかったことだが、東京でいわれているほどに放射線量は危険といえるレベルでは無く、実際にはそれほど危険でない事も容易に理解した。東京にいると、ここは放射線が高レベルに達して手がつけられない、もはや生物などは放射線で死滅して「死の町」と化している─といった調子で報じられ、漠然とそう思っている人が多い。
だが、断じてそんなことはなかった。すぐ横には松林があってそこには鷹が住み着いていたし、さらにその近くで猫二匹がじゃれあう様子も見かけたりした。イノシシを見たという話もあった。万事TV等メディアは大袈裟だし、むしろわかっていながら徒に危険を煽ったりすることすらある。
郡山まで一緒に来たが業を煮やして東京に帰った友人が突然、電話をかけてきたことがあった。「原子炉4号機は爆発の危険があるが、お前は大丈夫か」と私の身を案じている。私はそのとき、〝爆発寸前〟の4号機の脇で作業を終えた後、免震棟に移って仮眠中だった。彼は今にも爆発するかもしれない、とテレビ報道を真に受けている。実際の現場と当時のマスコミの報道とは余りにもかけ離れ過ぎなのだ。全く危険性を感じることなど皆無で、日々の作業を冷静に黙々とこなす毎日を過ごしていた。
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■ 松尾一郎氏 昭和42年(1967)年、福岡市生まれ。中央大学中退。南京事件などの写真の検証を行った自由主義史観研究会プロパガンダ写真研究会で中心的役割を果たす。著書に『プロパガンダ戦「南京事件」秘録写真で見る「南京大虐殺」の真実』(光人社)がある。