雑誌正論掲載論文
家族の「逆襲」 家族解体政策の流れを断ち切る「夫婦別姓・再婚禁止期間」最高裁判決
2016年02月25日 03:00
麗澤大学教授 八木秀次 月刊正論3月号
下馬評では「1勝1敗」というのが大方の見方だった。場合によっては「2敗」ということも十分あり得るという見方もあった。現在は、夫婦別姓に反対の政治家たちが政権を担っている。さすがの最高裁も政権に真っ向から歯向かう判決は出さないだろう。しかし、再婚禁止期間は、廃止を言い、DNA鑑定の導入を言い出しかねない。何しろ、2年前(平成25年9月)には、非嫡出子の法定相続分を嫡出子の2分の1とする民法の規定を違憲と判断した最高裁だ。メンバーはほぼ変わっていない。国民意識の変化だの、国連の委員会の勧告があるだのとの理由を挙げて、日本国民の家族観を大きく揺るがす判決を出すのではないかと思われた。メディアも朝日、毎日、日経は、判決に先立って、連日、夫婦別姓制導入、再婚禁止期間廃止に向けてのキャンペーンを張っていた。最高裁に圧力を掛けることを目的としたものであることは明らかだった。
昨年12月16日の最高裁大法廷判決を、私はテレビの前で固唾を呑んで見守った。結婚すると夫婦は同じ姓を名乗るとする民法750条と、女性にのみ前婚の解消・取り消し後、6カ月の再婚禁止期間を置かなければならないとする民法733条についての初めての憲法判断についてだ。午後3時、判決が示された。NHKは違憲判決を期待していたようでニュースの時間を拡大し、スタジオに解説の記者をスタンバイさせて判決を速報で伝えた。最初に再婚禁止期間の判決が出た。違憲の判断だ。しかし、内容は現行の6カ月を違憲とするものの、再婚禁止期間の意義は認め、一〇〇日に短縮することを求めるものだった。夫婦同姓については合憲の判決が出た。NHKのスタジオは当てが外れたかのように「澤穂希選手が引退を表明…」と次のニュースに移っていった。
私は共同通信から依頼されていた、「2敗」を前提に書いていた1200字の原稿を午後5時までの締め切りに向けて大慌てで直し始めた。嬉しい誤算だ。
その後、産経新聞他のメディアに電話でコメントした。コメントの回を重ねる度に、これは画期的な判決ではないかとの思いを強くした。記者の中には私の年来の主張を最高裁が受け入れたのではないかと指摘する者もいて、改めて判決文の詳細を読み返すと、なるほどその通りと思われるところも多かった。
私がこのテーマに取り組んで20年以上が経過する。夫婦別姓や再婚禁止期間廃止の主張に異を唱え始めた頃、世間の反応は冷たかった。大半は、これは世の流れであるとし、私は女性の敵か、頭のおかしい人扱いされた。保守派の多くは関心すら示さなかった。そんな小さなテーマにどうしてそこまで熱心なのかと冷笑された。
『諸君 』1996年3月号(2月2日発売)に掲載された拙稿「夫婦別姓は社会を破壊する 」が少々話題になったこともあり、その後、関心を示す人が増え、徐々に理解されるようになったが、それでも当時はそんな雰囲気だった。今回、最高裁大法廷が見解を示したことで司法判断としては一定の決着がついた。感慨深いものがある。
今回の判決についての私の見解は当日にいくつかのメディアに対して述べたコメントで概要は示されている。最も詳細なものは先述の共同通信への1200字の寄稿で、翌日、北海道新聞、河北新報、中国新聞、西日本新聞、沖縄タイムスなど全国の県紙・ブッロク紙計17紙に掲載された。それはそちらを見て頂くとして、各社へのコメントの中で最後の仕事となった日刊紙『世界日報』(2015年12月17日付)へのコメントが比較的まとまっているので、まずこれを紹介し、その後に多数意見(判決は15人の裁判官の多数決)を中心に判決を検討したい。
『世界日報』は「制度の意義踏まえ画期的な判決」との見出しで以下のように私のコメントをまとめている。
〈両判決ともおおむね妥当だ。夫婦同姓については、氏名が個人の呼称でなく、「家族の呼称」と強調。その上で、両親とその間に生まれた子供が共通した家族の呼称を名乗ることの意義に言及しており、大いに評価できる。/結婚して姓を変更すると、個人のアイデンティティーが喪失するとの主張に対しては、旧姓の通称使用で緩和されており、夫婦同姓が合理性を欠くとは言えないとしておりこれも妥当。/再婚禁止期間についても女性差別ではなく、父親の推定で混乱を避ける意義があると説いている。禁止期間を廃止してDNA鑑定で判断すればいいとの意見もあり、そちらの判決が出るという見方もあった。しかし、科学技術の発展を踏まえ、禁止期間を100日に短縮しながらも、制度の意義は維持できると、妥当な判
断を示した。/全体としては、非嫡出子相続差別規定の時とは違って「家族の多様化」や、国連の女性差別撤廃委員会の(選択的夫婦別姓制度を含む)民法改正勧告に言及せず、ひたすら現行制度の意義を説いたという意味で画期的と言える。さらには、制度の在り方は国会で論ぜられるべきであるとして、最高裁が事実上の立法行為をすることについて抑制的なことも評価できる。〉
判決(多数意見)は、まず夫婦同姓などの民法における氏に関する規定について、こう述べる。
〈これらの規定は、氏の性質に関し、氏に、名と同様に個人の呼称としての意義があるものの、名と切り離された存在して、夫婦及びその間の未婚の子や養親子が同一の氏を称することにより、社会の構成要素である家族の呼称として意義があるとの理解を示しているものといえる。そして、家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位であるから、このように個人の呼称としての一部である氏をその個人の属する集団を想起させるものとして一つに定めることにも合理性があるといえる〉
ここで重要なのは家族を「社会の構成要素」「社会の自然かつ基礎的な集団単位」であるとしていることだ。私の知るところ、家族を「社会の自然かつ基礎的な集団単位」とした判決を最高裁が出したことはない。判決が画期的である所以だ。「社会の自然かつ基礎的な集団単位」との表現は最高裁の独創ではない。世界人権宣言(1948年)第16条の文言そのものであり、国際人権規約A規約〔経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約〕(1966年採択、1976年発効、1979年批准)第10条も家族を「社会の自然かつ基礎的な単位」としている。これらを踏まえたものだが、判決が家族共同体の意義を重視したものであることが窺える。
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■ 八木秀次氏 昭和37(1962)年生まれ。早稲田大学法学部卒業。同大学院政治学研究科博士課程中退。専攻は憲法学、思想史。高崎経済大教授などを経て現職。日本教育再生機構理事長。教育再生実行会議提言FU会合、法制審議会民法(相続関係)部会の各委員。『憲法改正がなぜ必要か』(PHPパブリッシング)など著書多数。