雑誌正論掲載論文
台湾は独立へ向かうのか 老台北が語った激烈「台湾総統選勝利」の意味
2016年02月05日 03:00
ノンフィクション作家 門田隆将 月刊正論3月号
2016年1月16日は、後世から見ると「ぎりぎりの岐路」だったことがわかるに違いない。それほど大きな意味を持つ選挙だった。
この日、投開票がおこなわれた台湾総統選で、民進党の蔡英文女史(59)が、対抗馬の国民党の朱立倫候補(54)に300万票以上の大差をつける「689万票」を獲得して当選した。
私は開票の夜、台北市北平東路にある民進党本部にいた。
道路を封鎖して「集会」の場となっていた本部前には、すでに開票前から支持者が続々と詰めかけていた。蔡女史の当選と立法院選挙での民進党の圧勝も確実となったことがテレビで伝えられた時、凄まじい歓声が湧き起こった。建物を揺るがす地響きのような群衆の叫びだった。
その瞬間、本省人(もともと台湾で生まれ育った台湾人)たちが歩んだ長い苦難の道とこれまでの悔しさが、心中に去来した。
16年前の2000年、激烈な選挙戦の末に民進党候補として初の台湾総統に登り詰めた陳水扁氏(当時49歳)は、支持者たちの期待を一身に集めて船出した。
だが、国民党によって立法院の議席の多数が占められ、いわば、手足を縛られた〝ねじれ状態〟の中で、次第に陳総統は苛立ちを強めていく。時間が経つにつれ、逆に総統側が「追い詰められていった」のである。
そして2期目に起こったのは、息子の収賄スキャンダル、妻による総統府機密費の私的流用事件だった。これは、国民党によって徹底的に掘り起こされ、総統の座を下りた後、自身も機密費流用と資金洗浄容疑で逮捕されることに繋がっていく。
期待の星だった民進党の総統が汚職に塗れ、ついには逮捕されるという事態は、民進党支持者にとって、〝悪夢〟というほかなかっただろう。
「中華民国」ではなく、「台湾」という呼称を使う、いわゆる〝台湾正名運動〟を推進するなど、陳水扁氏には一定の評価もあったが、すべては「水泡に帰した」のである。
私は、民進党が惨敗する2008年、2012年の総統選の取材で、
「もう民進党には絶対入れません」
と断言する有権者と数多く出会った。
国民党とは正反対の〝クリーンさ〟を売り物にしていただけに、汚職の痛手は測り知れないものだった。そして、その後遺症は、なかなか払拭できなかった。
陳水扁時代以後の2期8年、台湾を率いたのは、国民党の馬英九総統である。馬英九氏は外省人(大戦後、蔣介石と共に大陸からやって来た中国人)の一族出身であり、故郷は、あくまでも大陸である。陳水扁氏とは全く逆の「大陸への回帰」を願望とする外省人の期待を背負っていたといっていいだろう。
大陸への回帰願望を隠しながら、馬総統は中国との接近政策を押し進めた。そして退任が間近になった2015年11月、ついに中国の習近平主席との「中台トップ会談」を実現させるのである。
シンガポールでおこなわれたトップ同士の会談は、血で血を洗う国共内戦から長い歳月を経て、史上初めて実現したものだった。
だが、世界を驚愕させたのは、両者が〝ひとつの中国〟で合意したことだろう。それは、台湾人にとっては、それこそ悪夢のような事態だった。
「なぜ馬英九は台湾を中国に売り渡すのか」
選挙わずか2か月前のこの出来事が、いったい有権者の投票行動にどう影響するのか─1月16日投開票の「結果」にいやが上にも関心が高まったのは当然だった。
それは、冒頭のように中国への接近政策に対して、台湾人が〝ノー〟を突きつけるという痛烈な意思表示となった。
私は、この歴史的な日、ある人物と会っていた。誰よりも民進党と蔡英文女史の勝利を待ち望んだ人物である。
長年にわたって、台湾人としてのアイデンティティを説き続けた台湾の実業家、蔡焜燦氏(89)である。
司馬遼太郎氏の『街道をゆく─台湾紀行』で〝老台北〟と紹介された蔡氏は、日本を「母国」と語り、台湾を「祖国」と表現する。
日本を愛し、台湾に誇りを持つ蔡氏に、司馬遼太郎氏が深い感慨を抱いたように、その後、日本の政治家や識者たちを含む多くの日本人が、蔡氏と親しく交友してきた。
やがて話題の書『台湾人と日本精神─日本人よ胸を張りなさい』を日本で出版した蔡氏の話には、さらに多くの日本人が耳を傾けるようになる。
それは、日本ではなかなか聞くことができない、かつての日本の真実の姿が独特の話術と具体的なエピソードによって、生き生きと蘇るからだったに違いない。
国民党によって、多くの台湾人が虐殺された228事件、そして、それ以後の白色テロの時代、恐怖と隣り合わせの戒厳令下の生活……蔡氏が語る台湾人の苦難の日々は、同時に台湾の日本統治時代への郷愁を呼び起こすものでもあった。台湾人の苦難を、これほど明快に、そして正確に表現できる人は、ほかにいなかっただろう。
この日、台湾独立建国連盟が入る台北市杭州南路のビルの一室で、私は蔡氏の話を伺うことができた。
「涙が止まらない。(開票速報が映し出される)部屋に入ること自体が、私には、なかなかできない。どうしても涙が出てきてしまうんだ……」
蔡氏は、そう語り始めた。
「戦後70年が経って、こういう選挙があった。これは、台湾が70年前に戻るということです。歴史は、こうして巡る。70年とは、そういうことなんだ、ということがわかりました」
蔡氏は、あの戦争からちょうど「70年」が経った時にこの選挙があった「意味」を噛みしめるように、そう繰り返した。
「歴史は、また元に戻っていく。そういうことなんだ」
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■ 門田隆将氏 昭和33(1958)年、高知県生まれ。中央大学法学部卒。ノンフィクション作家。『なぜ君は絶望と闘えたのか』(新潮文庫)、『太平洋戦争 最後の証言』(角川文庫)、『死の淵を見た男─吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP)など著書多数。『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(角川文庫)で山本七平賞受賞。