雑誌正論掲載論文
EUに国境復活!? 難民で消えゆく「ヨーロッパ統合」の幻想
2015年10月05日 03:00
作家 川口マーン惠美 月刊正論11月号
ドイツが難民で溢れかえっている。ただ日本から見ている限り、いったい何が起こっているのかよく分からない。ハンガリーで、なぜあれほど多くの難民が漂流してしまったのか。メルケル首相は、なぜ難民を大量に受け入れると言ったのか。EUの規則はどうなっているのか。ドイツの国民は、本当にこれほど膨大な数の難民を受け入れるつもりなのか…。日本では、EUの難民政策の混乱は何も報道されないまま、またまた「ドイツは偉い」論が形成されつつある。
そこで、まず、直近の事象だけでも整理してみたい。最初にお断りしておきたいのは、本稿で扱うのは経済難民ではなく、ドイツ基本法(憲法に相当)16条に明記されている「政治的に迫害される者は庇護権を享有する」に当てはまる難民だ。ドイツ人は、ユダヤ人を排斥・虐殺した過去にちなみ、難民庇護は自国の義務だと解釈している。ソ連や東欧が崩壊した時も、ユーゴ内乱の時も、この条件に当てはまる難民は無制限に受け入れてきた。
現在ドイツが受け入れようとしている難民もこの範疇に入る。シリア、イラク、アフガニスタン、ナイジェリアなどから来た人々なら、今のところ多くがドイツに留まれる。
一方の経済難民は、EUはもちろんドイツでも、なるべく早く帰ってもらう方針だ。いくらドイツが寛大な難民保護政策を取ってきたからといっても、宗教的迫害も、政治的迫害も、飢餓もない「安全な第三国」から来た人間の難民申請(正式には庇護申請)が認められることは絶対にない。実際には、ドイツでは現在、「安全な第三国」とみなされているバルカン半島からの庇護申請が増えすぎて(申請数のほぼ40%)、それはそれで困ったことになっているのだが、本稿ではそれには触れない。
EUではシェンゲン協定によって、人間の自由な往来が保証されている。「ヒト、カネ、モノ、サービスの自由な往来」がEUの肝だ。
しかし、難民にはダブリン協定というのが適用される。90年代に定められたこの協定によれば、難民は最初に足を着けたEU国で庇護申請をしなければならないことになっており、その国が難民の登録、資格審査など、初期対応をする。つまり、衣食住の世話や医療、子供の教育。一方、庇護申請している難民が他のEU国を通過して来たとわかれば、その難民をそこに戻すことができる。
もうひとつ大切なのは、庇護申請がEU内でしかできないこと。つまり、難民として認められるためには、どうにかして、まずEUに入らなければ始まらない。しかし実際には、戦乱の地から逃げて来る人々が正面玄関から入るチャンスは少なく、多くが極めて悪条件、高リスクな方法で密入国を試みる。
密入国ルートは、以前はいろいろあったが、最近EUは守りをどんどん固くしているため、危険な地中海ルートと、陸路のバルカン半島ルートにほぼ集約されている。そして、その密入国を斡旋し、暴利を貪っている国際犯罪組織がある。今やこの人間密輸という犯罪を通じて、麻薬や人身売買(売春)よりもずっと大きな黒いお金が動いているという。
困難は待ち受けるが…
地中海ルートの難民は、2010年のチュニジアの革命以来、リビアとシリアの内乱を経て急激に増えた。EUでは一時、難民を救助し過ぎるからどんどん来るのだという意見が勝ち、問題海域の救助パトロールを減らす方向に向かったことがあったが、EUを目指す難民は一向に減らず、遭難者が増えただけだった。そこで、いくら何でもヨーロッパの海である地中海で人間が溺れ死ぬのを看過するわけにはいかないと、再び救助に力を入れたら、当然のことながら、チャレンジする難民の数は急激に増えた。2014年、イタリアに着いた難民の数は17万人、今年は7月の時点で11万人。ギリシャはなんと今年の同時期に20万人(ギリシャの数字には陸路も含まれる)。
イタリア最南端のランペドゥーサ島にいたっては、シチリアよりもチュニジアにずっと近いので、アフリカ難民の格好の目的地だ。年間にしてみると、住人より流れ着いた難民の数の方が多いこともあり、対応しきれない。また、ギリシャの島々はトルコとは目と鼻の先なので多くの難民が流れ込むが、ギリシャは経済状態が悪く、初期対応どころか、ときに難民に与える水や食料にも事欠く。仕方がないので、多くを登録せずに通過させてしまっているが、難民もギリシャに留まりたいわけではないので、これ幸いとバルカン半島沿いに北進する。一方、悪徳な密入国斡旋業者によって、外洋の航海には不向きなボロ船に乗りこまされ、不幸にも海の藻屑と散った人は、今年前半期、わかっているだけで2千人近い。
陸路でも凄惨な話は尽きない。8月27日、オーストリアの首都ウィーンの近くの高速道路の路肩に、1台の冷蔵車(7・5トン車)が乗り捨てられていた。蓋を開けると71体の腐乱屍体。日本でも報じられたが、ホラー映画より怖い。
犠牲者はほぼ全員がシリア人で、死因は窒息死。ドイツに密入国しようとしていたらしい。容疑者としてブルガリア人とハンガリー人4人が拘束されたが、小さな冷蔵車に人間をたくさん詰め込めば、窒息死するに決まっているから、これはひどく稚拙で例外的な犯罪だったと思われる。
いずれにせよ、アラブでもアフリカでもバルカン半島でも、EUに行きさえすればなんとかなるという情報が拡散し、EUを目指す難民の波は大きくなるばかりだ。
ハンガリー首相の怒り
さて、ようやく本題。先日来、大きく報道されている、ハンガリーからドイツに移送されたシリア難民の話だ。まずは、シリア難民が、なぜハンガリーにあれほど大量にいたのか?
彼らはそれぞれの母国から、トルコ、あるいはギリシャに入り、そこからマケドニア、セルビアを経由し、ハンガリーに入る。交通手段は、最初のうちは自家用車という人もいただろうが、そのあとは前述の犯罪組織に頼るしかない。そして、方策が尽きれば、最後は徒歩。
多くの難民の目的地はドイツだ。なぜか?まず、ドイツには例の基本法16条があるため、庇護を得られる確率が高い。また、EUの中では経済状態が良いので、職を得られる可能性も高い。そのうえ、ドイツのお国柄として、ダブリン協定の規定になるべく忠実であろうとするので、難民収容所の待遇や医療が他の国よりも良い。お小遣いも出る、等々。いずれにしても、ドイツに到達しようというモチベーションを上げる要素は多い。
しかし、ドイツは遠い。8月半ばにマケドニアが、通過する難民のあまりの多さに驚いて、一時、セルビアとの国境を閉じたため、先に進みたい難民と衝突、警察が催涙ガスを発射するという騒ぎもあった。
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■ 川口マーン惠美氏 日本大学芸術学部卒業。旧西独のシュトゥットガルト国立音楽大学に留学、昭和60年2月同大学院ピアノ科修了。以後ドイツで作家活動。『住んでみたヨーロッパ 9勝1敗で日本の勝ち』(講談社+α新書)、『ドイツの脱原発がよくわかる本』(草思社)、『なぜ日本人は、一瞬でおつりの計算ができるのか』(PHP研究所)、『膨張するドイツの衝撃』(共著、ビジネス社)など著書多数。