雑誌正論掲載論文
東京裁判史観を突破した「縦の民主主義」の歴史力
2015年09月05日 03:00
上智大学名誉教授 渡部昇一 月刊正論10月号
戦後70年の8月14日、安倍晋三首相は「内閣総理大臣談話」を発表しました。私も全文を熟読しました。満足できる内容でほっとしました。「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(有識者懇談会)」の報告書には首を傾げざるを得ない箇所が多々ありました。今回の首相談話にはこれまで歴代の総理大臣が全く言及することがなかった内容も随所に盛り込まれ、村山談話とは全く違った内容に仕上がったことは高く評価したいと思います。とりわけ「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べたことは大変良かったと思います。
英国の小説家で評論家、思想家でもあるG・K・チェスタトンは「民主主義において現在生きている人々の意見を取り入れる民主主義を横の民主主義という。それにたいして、死んだ人々や子孫がどのように考えるかを考慮に入れる民主主義が、縦の民主主義である」と述べています。民主主義は今を生きている人々の判断が何事においても尊重され、最優先におかれます。これは裏返せば、現在を生きる人間の考えこそが至上である、という謬りを招きがちです。極端になると今を生きる人間が望むなら何をやってもかまわない、たとえ、先人や未来の子孫を苦しめる判断でも、顧みられることがないという今を生きる者たちによる「独裁」に陥ります。チェスタトンが鳴らした警鐘はまさにそうした愚かさを戒めるために向けられたものでした。
縦の民主主義という視点に欠けた村山談話
村山談話は大きな欠陥を持つものでした。
《わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました》
しかし、ここでいう「国策の誤り」という言葉が具体的に何を指すのかがわからない。政府自身が「『国策の誤り』については、個々の行為に対する評価等をめぐり様々な議論があるところ、政府として、その原因を含め、具体的に断定することは出来ない」と述べているのです。「侵略」という言葉も同様です。侵略とは何か、また日本のどのような行為を指して侵略といっているのか、がわからない。「侵略の定義については様々な議論が行われているが、確立した定義があるとは承知しておらず答えることは困難」というのが政府の正式の見解です。
政治は言葉で成り立っています。総理大臣が「国策を誤り」「侵略」「植民地支配」という言葉を使う以上、それがどういう意味なのか、何を指すのかが明確でなければならない。にもかかわらず、そこは何もないというのですから、ひどい話です。そして政権が代わるたびに踏み絵のごとく継承を迫られる。日本を「悪い国家」だと貶め、謝罪させられ、いつまでも日本から掠め取る口実となっている。歴史戦の好餌を相手側に与える。村山談話はそういう役割を果たしています。私たちの先人は絶対にそういう日本を望んでなかったはずです。村山談話を漫然と維持し、取り扱いを誤れば、私たちの子孫はいつまでも肩身の狭い思いを抱きながら生きて行かなければならない。そんな宿命を背負わされてしまいます。
白人「戦勝国」に対する批判もにじむ安倍談話
かつて日本の総理大臣のなかに、先人や遠い将来の子孫の代における日本の名誉を案じながら談話を出した方がいただろうか、と考えたとき、安倍談話には高く評価できる記述が随所にあります。
《百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました》
明治維新で日本はアジアではじめて立憲政治を打ち立て、近代国家を築きました。それは西欧諸国の植民地となることが当たり前だった時代において並大抵のことではありませんでした。日本は真空のなかに生きていたのではありません。公正に評価して、日露戦争の勝利がどれだけアジアアフリカの人々に勇気を与えたか。同時にこの記述は、白人「戦勝国」に対する批判にもなっています。果たしてかつてこうした私たちの誇るべき歴史を世界に向けて発信した首相がいたでしょうか。
《戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません》
謝罪に対して慎重かつ抑制的だったことも安倍談話の特徴です。「言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません」「心に留めるべき」「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」…歴史を生きた様々な人をいたわりながらも感傷に流されず踏みとどまっているのです。また、「名誉と尊厳を傷つけられた女性」に関する記述は、こうしたことが日本だけでなく、20世紀にはどこにもあった―ベトナムでも東ドイツでも満洲でもあった―ことだと読めます。
《事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります》
第一次安倍政権でも安倍首相は村山談話をもう少しバランスあるものに書き換えようと準備を進めていました。ところが安倍氏はそこに「とんでもない落とし穴があった」と明らかにしています。
《平成十年、中国の江沢民国家主席が訪日した際の日中共同宣言に「(日本側は)一九九五年八月十五日の内閣総理大臣談話(村山談話)を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し…」という文言が盛り込まれていたのです…日本が一方的に反故にすることは国際信義上出来なかった…結局私は内閣総理大臣として、村山談話の継承を表明しなくてはなりませんでした》(正論2009年2月号)
日中共同声明で日本の過去の歩みについては全て解決が図られ清算したはずでした。閣議決定がなされたとはいえ、詐術的なプロセスで進められた一内閣の談話に過ぎない「村山談話」が国家同士の約束事にまで組み込まれていた―それも中国との―わけです。村山談話を盾に取って、謝罪要求が繰り返され、それに応じる悪循環は断ち切りたい、だがいきなり破棄したり否定すると、一度国家同士で取り交わした約束事にまで波及し、一方的に日本が葬り去ったことになってしまう…。この構図は今日も変わりなく続いています。結局、安倍談話は村山談話を継承せざるを得ませんでした。しかし、安倍談話はここでさらなる工夫をしているのです。安倍談話は「歴代内閣の立場は今後も、揺るぎない」と村山談話を歴代内閣のひとつとして取り込んだうえで「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と新たに上書きしたのです。これは信義則を守りつつも、未来永劫続くかもしれない謝罪の連鎖も断ち切るべく楔を打ちこんだ。そういえるのではないでしょうか。そしてこれは間接的に東京裁判史観を否定したことを意味しているのです。戦前の日本を侵略国とし、「悪玉」とし、それ故に謝罪が必要だというのは正に東京裁判に根拠を置くものだからです。
講和後も東京裁判という復讐劇に縛られる外務省
日本は悪かったのだ、という東京裁判史観を戦後70年経過してなお、サンフランシスコ講和会議の出席を拒絶した共産党や社会党の残党―村山元首相もその1人―は完全に払拭することができなかったのです。実に残念ですが、東京裁判史観の猛威の大きさを改めて痛感します。では総理大臣談話で押さえるべき内容とは何だったのでしょうか。それは、サンフランシスコ平和条約で我が国が国際社会で復帰した。そしてひたすら平和に努力してきた。今後もそうした歩みを大切にしていきます、というものです。これが本来の総理大臣談話にまず必要な条件だったのではないでしょうか。村山元首相にはそれができなかったのです。
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■ 渡部昇一(わたなべ・しょういち)氏 昭和5(1930)年、山形県生まれ。上智大学卒業。同大学大学院西洋文化研究科修了。独ミュンスター大学、英オックスフォード大学に留学。Dr.phil.,Dr.phil.h.c. 著書に言語学・英語学の専門書のほか『国民の教育』『先知先哲に学ぶ人間学』『国家とエネルギーと戦争』など多数。昭和60年第1回正論大賞受賞。