雑誌正論掲載論文

米国の対中「口だけの介入」の元凶――オバマの外堀は埋まった

2015年07月05日 03:00

産経新聞特別記者 湯浅博 月刊正論8月号

 もちろん、4月末に訪米した安倍晋三首相の米上下両院合同会議での演説は、申し分のないものであった。これほど未来志向でウィットに富み、聞かせどころ満載のわが国指導者の英語演説は、過去に聞いたこともなかった。それでも一点だけ、この訪米期間中にぜひ訪問してもらい町があった。首相がワシントン訪問前に訪ねた東部のボストンでも、訪問後の西部シリコンバレーでもない。中西部のトウモロコシ畑に囲まれた小さな田舎町、ミズーリ州フルトンである。

 戦後まもない1946年3月、英国のチャーチル元首相が、この町のウェストミンスター大学で史上有名な「鉄のカーテン」演説をしている。チャーチルはソ連の台頭によって共産主義圏と自由主義圏が分断される形で、欧州大陸を横切る「鉄のカーテンが下ろされた」と来るべき冷戦の始まりを告げたのだ。それまで、一緒に日独と戦ったソ連が、戦争終結したとたんに東欧に勢力圏の拡大をはじめたからである。

 チャーチルはこの演説で、ソ連に対抗して米英が同盟関係を強化すれば、「ヨーロッパの勢力均衡が崩れて不安定になることが避けられる」と、新たな危機への抑止戦略を描いた。ちょうど同じ頃、米国務省にはモスクワの駐ソ代理大使のジョージ・ケナンから、ソ連の西側への敵意が共産主義イデオロギーと伝統的な拡張主義によるものであるとする約8000字の「長文電報」が届いていた。チャーチルはこれを巧みなレトリックを使い、米英同盟によって事態は克服できると新たな対ソ戦略を提示したのである。

 さて、時計の針を現代に戻して、米英同盟を日米同盟に、ソ連を中国に置き換えると、安倍首相がチャーチルのようにフルトンで演説する意味が浮かんでくるだろう。海洋アジアで膨張する中国に対抗し、日米同盟を軸にアジアを結束させることが「アジアの勢力均衡」を図る道であることを鮮明にする。

 畏れ多いアナロジーで恐縮だが、チャーチルがトルーマンに対ソ戦略を打ち出したように、安倍首相はフルトンの地からオバマ大統領と米国民に効果的な注意喚起ができただろう。フルトンではその後も、サッチャー英首相やゴルバチョフソ連大統領が、この地で演説をした象徴的な場所なのだ。

『100年のマラソン』は冷戦を警告した「X論文」中国版

 では、米国内で当時のトルーマン政権に対して、対ソ戦略の理論的な裏付けを提供した戦略家ケナンのような人物は、いまのワシントンにはいないのだろうか。ケナンはモスクワから長文電報を発した翌1947年、外交誌『フォーリン・アフェアーズ』に、筆者「X」として有名な論文「ソ連の行動の源泉」を書いて、直接、米国民に対ソ冷戦への覚悟を訴えた。世にいう「X論文」である。

 実は、中国への警戒論が高まるワシントンでいま、一冊の書物が「X論文」のような衝撃をもって迎えられている。中国問題の第一人者、マイケル・ピルズベリー氏(ハドソン研究所中国戦略センター長)の『100年マラソン――超大国・米国に取って代わる中国の秘密戦略』(The Hundred-Year Marathon : China’s Secret strategy to Replace America as the Global Superpower)である。

 ピルズベリー氏といえば、2006年ごろまでは対中関与政策を支持する「協調派の中心人物」で知られていた。その彼が「中国に騙され、対中認識は間違っていた」と激白し、対中協調派を意味する「パンダ・ハガー」の衣を脱ぎ捨てることさえ強調した。そして、中国が「平和的な発展」「中国の夢」というスローガンの陰で、むしろ米国主導の世界秩序を覆そうとしていることを具体的に論証したのである。

 この本がワシントンで、安全保障や中国専門家の間で熱い議論の的になっているのは、ピルズベリー氏自身も含め中国に対する「5つの誤った仮説」にとらわれすぎていたと断言しているからである。米国の中国専門家たちはこれまで、①建設的な対中関与は協力をもたらす②中国は民主主義へと向かう③日米欧の犠牲となったか弱い国④中国は米国のようになりたいと願っている⑤中国の強硬派は弱体化している―と考えていた。だがピルズベリー氏は、これらがすべて幻想であったと結論づける。

 ピルズベリー氏はある極秘文書を入手し、共産党指導部に影響力をもつ強硬派が、米国を初めから「帝国主義者の敵」であると見てきたことを明らかにした。しかも、彼らは建国から100年目の2049年までに経済、軍事、政治のすべての面で、米国に代わって世界の支配者になることを目指している。中国は公式には多極化世界の実現を主張しているものの、最終的に中国が世界の指導国にいたる途中段階という位置づけである。

 その強硬派の戦略家たちは、中国を世界の国内総生産(GDP)の3分の1を占めていた300年前の時代への復活を目指していると、ピルズベリー氏は指摘する。とりわけ、血塗られた天安門事件を経て、彼らは中国内部で穏健派との論争にうち勝ち、その1人は習近平主席に影響力をもった。ここが重要な点である。

 いまや、習主席周辺の強硬派は「四九年目標」を隠そうともせず、そのプロセスを「100年マラソン」と呼んでいる。彼らは北京指導部に対し、米国が中国の共産党体制を骨抜きにして、国際秩序に従属的に参加させようとしていると吹き込む。そのうえで、北京は「米国の関与政策の誘いに従うふりをしながら、国力を強めて米国の覇権を奪い、中国主導の秩序を築く」ことを長期戦略として推進した。目標が正義になると、どんな悪辣な手段も正当化される。「愛国無罪」がまかり通る世界だ。

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■ 湯浅博氏 昭和23年(1948)年東京都生まれ。中央大学法学部卒、プリンストン大学Mid-Career Program修了。産経新聞外信部次長、ワシントン支局長、シンガポール支局長などを歴任。主著に『アジアが日本を見捨てる日』(PHP研究所)、『吉田茂の軍事顧問辰巳栄一』(産経新聞出版)、『覇権国家の正体』(海竜社)など。