雑誌正論掲載論文

世はこともなし?第121回 耕余塾が生んだ男

2015年06月25日 03:00

コラムニスト・元産経新聞論説委員 石井英夫 月刊正論7月号

 高校時代からの友人に田川五郎という男がいる。田川君は慶応大学をでて読売新聞に入った。横須賀の素封家の五男に生まれ、長兄の政治家田川誠一氏は元自治相をつとめた。私こと老蛙生の札幌支局勤務時代、田川君は読売の北海道総局だった。よくよくの縁があったというべきだろう。

 そろって新聞記者は定年になったが、物書きの習性は終息せず、田川君は郷土史を中心にいくつもの著作を世に送りだし、そのつど敬服してきた。そしてことしになって贈ってくれたのが『民権学舎/耕余塾の人々』(中央公論事業出版)という一書だった。

 耕余塾とは明治の初め、神奈川県藤沢の一隅に生まれた小さな私塾の名である。

 塾といえば、この5月、世界遺産へ登録勧告された松下村塾(山口、吉田松陰)はじめ適塾(大阪、緒方洪庵)、鳴滝塾(長崎、シーボルト)、咸宜塾(大分、広瀬淡窓)、洗心洞塾(大阪、大塩平八郎)など、江戸時代の教育は藩校、私塾、寺子屋の三本立てで行われたそうだ。

 相模湾をのぞむ藤沢市は江の島や鵠沼など海水浴場で知られるが、若者に人気のサーフィンやビーチバレーは日本ではこの地で始まったという。明治5(1872)年春、その藤沢の中心地から南西へ2キロほど離れた戸数70ばかりの高座郡羽鳥村(いま藤沢市羽鳥)に、小笠原東陽という武士の儒学者が招かれて小さな塾を開いた。それが耕余塾で、東陽は58歳で死んだが、弟子が引き継いで明治30年まで存続し、卒業生は3000人に達したというから大したもの。東の松下村塾、あるいは適塾といっていいかもしれない。

 吉田茂(元首相)、中島久萬吉(斎藤実内閣の商工相)、平野友輔(自由民権活動家)、鈴木三郎助(味の素創始者)、遺伝学者の外山亀太郎(東大教授)などなど。耕余塾の跡地はいまも藤沢市内に市指定史跡として残っているが、「明治初め、湘南の一寒村から、これだけ多くの人材が輩出したのは全国でも珍しいこと」と田川君は記している。

 ここでは多士済済の卒業生のなかでも異色でユニークな山梨半造を紹介してみよう。

 どう異色でユニークなのか。山梨半造は大正時代に陸軍大臣になった陸軍大将だが、明治から昭和にかけて「半造ほど評判の悪い将軍は見当らない」(本書)というのだから、かなりのものだろう。

 たとえば評論家の馬場恒吾は「だれに聞いても非難攻撃ばかりで、山梨のことを良く云う人がないのに驚いた」(『山梨半造と斎藤実』)と書き、軍事評論家の松下芳男は「秀才だけに頭は緻密だが、性陰険にして好憎の念強く、人事行政の偏波は目を覆わしむるものあり」と酷評した。

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■ コラムニスト・元産經新聞論説委員 石井英夫 昭和8年(1933)神奈川県生まれ。30年早稲田大学政経学部卒、産経新聞社入社。44年から「産経抄」を担当、平成16年12月まで書き続ける。日本記者クラブ賞、菊池寛賞受賞。主著に『コラムばか一代』『日本人の忘れもの』(産経新聞社)、『産経抄それから三年』(文藝春秋)など。