雑誌正論掲載論文
安倍首相は天皇陛下の逆臣なのか
2015年06月05日 03:00
麗澤大学教授 八木秀次 月刊正論7月号
ここのところ、安倍晋三首相の歴史観や首相が進める安全保障法制の整備、憲法改正を非難し牽制する意味で、天皇陛下や皇族方のご発言を政治利用する傾向が内外のメディアにある。陛下や皇族方が首相の示す方向に強い違和感をお持ちであるのに、首相はそれに背いてことを進めようとしているという内容だ。
『週刊文春』5月21日号は、5月1日付で侍従長が川島裕氏から河相周夫氏に交代したとする記事で、宮内庁担当記者の次のような弁を紹介している。
「天皇陛下を八年間にわたり補佐してきた川島さんは、退任会見で『象徴天皇』という言葉を繰り返し述べ、『ありがたい制度』と表現しました。今上陛下は、改憲して天皇を国家元首に変更しようとする現政権の動きに違和感を覚えているとも言われていますが、川島さんの発言は、象徴天皇制を維持すべきとする陛下のご意向を暗に代弁しているように感じられました」
どこの報道記者か知らないが、奇妙な発言だ。自由民主党の憲法改正草案(平成24年4月)は「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」(第1条)と規定しているが、これは象徴天皇制を否定したものではない。天皇は現行憲法と同様に「象徴」と位置づけられている。直前に「日本国の元首」とあるが、これも天皇に政治的実権を与え、政治判断して頂こうというものではない。国家元首とはかつては行政権の主宰者というほどの意味であったが、今日では国家の対外的代表者という意味で落ち着いている。
現行憲法でも天皇は対外的代表者(第7条1号、5号、8号、9号、10号)だが、国家元首の規定を欠いており、学説や運用上の混乱をもたらしてきた。自民党案はそれを確認したものに過ぎない。違和感を覚えようがない内容だ。仮に陛下が違和感をお持ちであれば、自民党案の真意をご説明申し上げるのがメディアや宮内庁の役割ではないか。敢えて天皇陛下と安倍首相を対立させ、陛下に首相を批判させる役回りをして頂こうとの意図が窺える。
米紙『ニューヨーク・タイムズ』(電子版)は4月20日の社説で安倍首相の訪米について、その成否は「戦争遂行への決定、中国・韓国に対する野蛮な占領、大虐殺、戦時の売春宿で性奴隷ないし『慰安婦』として数千人の女性を強制的に働かせた奴隷制を含む戦時の歴史に安倍氏が誠実に向き合うかどうかにかかっている」「しかし、日本は過去の批判を拒否しようとするならば、広い役割を確実に果たすことはできない」として、次のように述べている。
「日本の明仁天皇と彼の家族が安倍氏を明らかに批判するよい例を示している。徳仁皇太子は将来の世代に『歴史が正しく伝えられていく』ことが必要と明言している」
意味不明の内容だ。皇太子殿下が、この社説がおどろおどろしく取り上げている「大虐殺」や「慰安婦=性奴隷」を史実として受け止め、それらが「後世に正しく伝えられることが必要」と述べられたような印象を与えるが、殿下は「大虐殺」「慰安婦」など一言も、おっしゃっていない。今年2月20日の記者会見で、戦後70年に当たって「戦争と平和へのお考え」を問われて「私自身、戦後生まれであり、戦争を体験しておりませんが、戦争の記憶が薄れようとしている今日、謙虚に過去を振り返るとともに、戦争を体験した世代 から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切であると考えています」と述べられているだけだ。また、次のような発言をされたにとどまる。
「先の大戦において日本を含む世界の各国で多くの尊い人命が失われ、多くの方々が苦しい、また、大変悲しい思いをされたことを大変痛ましく思います。 広島や長崎での原爆投下、東京を始め各都市での爆撃、沖縄における地上戦などで多くの方々が亡くなりました。亡くなられた方々のことを決して忘れず、多くの犠牲の上に今日の日本が築かれてきたことを心に刻み、戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう過去の歴史に対する認識を深め、平和を愛する心を育んでいくことが大切ではないかと思います。そしてより良い日本をつくる努力を続け、それを次の世代に引き継いでいくことが重要であると感じています」
「我が国は、戦争の惨禍を経て、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、平和と繁栄を享受しています。戦後70年を迎える本年が、日本の発展の礎を築いた人々の労苦に深く思いを致し、平和の尊さを心に刻み、平和への思いを新たにする機会になればと思っています」
ここに安倍首相に対する非難の言葉を探すのは難しい。先の大戦で多くの尊い命が失われたこと、その犠牲の上に今日の日本が築かれたこと、戦争の惨禍が繰り返されないようにしなければならないこと、これらは皇太子殿下のみならず、戦後に生きる日本国民共通の認識だ。安倍首相も同様だろう。『ニューヨーク・タイムズ』は首相を「右翼」「国家主義者」と決めつけ、歴史を直視せず、修正しようとして中学校教科書の記述を改めさせたと批判がましく書いている。そしてその安倍首相を苦々しく思っている存在として天皇陛下や皇太子殿下を登場させるのだが、明らかに無理がある。首相はこの社説が殊更に強調しているような慰安婦に関する国際的誤解を解き、史実に基づいたものに改善しようとしているだけだ。文字通り「歴史を正しく伝えよう」としている。社説はためにするものだ。
政治利用されたご発言
この傾向は日本のメディアにも見られる。朝日新聞出版の発行する週刊誌『AERA』5月4―11日号は、「天皇、皇后の平和と憲法に込める思い お言葉がいま際立つ理由」と題する記事で「集団的自衛権の行使容認が閣議決定され、戦争放棄をうたう憲法9条の改正も視野に入るなど、日本社会の右傾化が懸念されるなか、天皇、皇后両陛下の言葉こそ、平和の最後の砦のようになっている」とし、次のように締め括る。
「戦後70年を迎え、戦争を体験した世代が少なくなった。歯止めを失ったように、日本社会の憲法や平和に対する考え方は急速に変容している。本来、政治とは一線を画すはずの両陛下の言動が際立って見えてくるのは、その社会の裏返しにほかならないのだ」
安倍政権の下で日本社会が右傾化する中、本来であれば政治的発言を慎むべき立場にある両陛下が右傾化にブレーキを掛け、「平和」のために已むに已まれぬ思いで発言なさっているという筋書きだ。私は本誌昨年5月号のコラムで両陛下の憲法についてのご発言が政治利用される恐れを指摘して「違和感」を表明したことがあり、この記事でも「メディアに政治利用された」とコメントしている。
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■ 八木秀次氏 昭和37(1962)年、広島県生まれ。早稲田大学法学部卒業。同大学院政治学研究科博士課程中退。憲法学専攻。高崎経済大教授など歴任。著書に『憲法改正がなぜ必要か』(PHP)など。