雑誌正論掲載論文
戦後70年「敗戦国」から脱却せよ
2015年05月15日 03:00
産経新聞政治部編集委員 阿比留瑠比 月刊正論6月号
「もはや戦後ではない」
経済企画庁(現内閣府)が経済白書にこう記述したのは昭和31年、今から60年近く前の話である。当時の鳩山一郎首相の孫で、ルーピー(クルクルパー)と呼ばれた鳩山由紀夫元首相が政界を引退してからも、すでに随分たつ気がする。
昭和60年の施政方針演説で中曽根康弘首相(当時)が「戦後政治の総決算」を訴えてからも、はや30年が経過した。あの時代を象徴したこの言葉も、もうあまり思い出されることもなくなった。
それなのに、日本はいまだに「戦後」という堅牢な枠に閉じ込められたままだ。今年はメディアや国会で「戦後70年」が強調されており、戦勝国はお祭り気分ではしゃいでいるが、筆者はこの言葉を使うこと自体に抵抗を覚える。
なぜなら70年と言えば、人が生まれて学校へ通い、社会に出て年金受給者となる時間をさらに上回る長い歳月なのである。にもかかわらず「戦後」はいつまでたっても終わらず、日本はいつまでたっても内外で敗戦国、敵国の扱いに甘んじている。
なんと非生産的で退嬰的な現状だろうか。もちろん、中国や韓国のように、建国の経緯から日本を執拗に悪者にし続けなければ正統性が保てない国もあるが、どうしてそんな相手国の勝手な事情にこっちが付き合わなくてはならないのか。
やはり、安倍晋三首相が第一次政権時代に掲げた「戦後レジームからの脱却」が必要である。これからの日本を背負う世代は、偽善と自己愛に満ちた内向きの反省と自虐の中に閉じ籠もることはやめ、国際社会で自国に自信と誇りを抱き、堂々と前を向いてほしい。
またぞろ蠢く謝罪マニアの面々
今年は、日本が新しい時代を前向きに生きるための第一歩にしたい。そして、今度こそ本当に、高らかに「もはや戦後ではない」と内外に宣言しなければならない。
ところが、左派メディアも野党も相変わらず思考停止し、「過去」に拘泥している。安倍首相が今夏に出す戦後70年談話について、戦後50年の村山談話、戦後60年の小泉談話の踏襲を求め、「植民地支配と侵略」や「心からのお詫び」などの文言をそのまま使うべきだと感情的に主張している。
揚げ句、戦後70年談話に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」の北岡伸一座長代理(国際大学長)までが3月のシンポジウムで、「安倍首相に『日本は侵略した』とぜひ言わせたい」と言い出す始末だ。
さながら啓蟄前後から、日本中の謝罪マニアが土中から這い出て一斉に踊り出したかのようで、かまびすしいことこの上ない。
「こうなったら、談話では『侵略』『植民地支配』などのいわゆるキーワードは使わずに、いっそ修辞を凝らした『文学』にしてやろうかと思っている」
政府高官は周囲にこう話している。例えば安倍首相は平成26年7月にオーストラリアの国会で行った演説でも、外務省案にあった先の大戦にかかわる「謝罪」という言葉は採用しなかった。その代わり、次のように深い哀悼を示すにとどめた。
「何人の、将来あるオーストラリアの若者が命を落としたか。生き残った人々が、戦後長く、苦痛の記憶を抱え、どれほど苦しんだか。(中略)私はここに、日本国と、日本国民を代表し、心中からなる、哀悼の誠を捧げます」
その結果、明確な謝罪などしなくても、安倍首相の演説はオーストラリア議会に受け入れられ、大きな拍手を受けたのである。何も特定のキーワードにこだわる必要はなく、全体としてどういうメッセージを伝えるかが大事なのだ。
ちなみに安倍首相は、終戦の日である8月15日の全国戦没者追悼式での式辞でも、近年の歴代首相が使用してきたアジア諸国の人々に損害と苦痛を与えたとする「反省」を踏襲していない。オートマチックに前例通りにあいさつするより、よほど意を尽くしたと言えるのではないか。
また、政府高官は北岡氏の「侵略」発言についてもこう突き放している。
「まあ、北岡発言は関係ない。自分で『侵略した』なんて言う国は日本しかない。だって果たして日本は英国を侵略したのか。何で当時、オランダがインドネシアにいたのか。日本が侵略したというのなら、欧米中が侵略していたということになる」
続きは正論6月号でお読みください