雑誌正論掲載論文

標的にされた島 延坪島をゆく

2011年04月02日 19:50

 金正恩への権力委譲の過程で起こった民間人を巻き込んだ無差別攻撃。北の狙いは一体何なのか。(月刊正論5月号)

金門島を彷彿させる島

 「ユギオ(朝鮮戦争)の時でも島は戦場にならなかったのに、なんで今頃になって、砲弾が降ってくるようになってしまったのか」

 地元の老人は、怒りに震えながら嘆いた。

 昨年11月、北朝鮮は韓国の延坪島(ヨンピョンド)に対し、休戦協定以降、前例のない大規模な砲撃を敢行した。砲弾が直撃し巨大な炎が噴き上がる映像や、幾筋もの不気味な黒煙が立ちのぼる映像が、事件後に繰り返し放映され、見る者を驚かせた。北朝鮮は軍事施設を攻撃し、その流れ弾が住宅地区に落下したのか、あるいは民間人をも標的にした無差別攻撃だったのだろうか。

 活字や映像では読み解くことができなかった疑問を抱いて、私は砲撃事件から3カ月後の2月19日、“最前線の島”を訪れた。延坪島は大小二つの島からなり、行政的には直線で90キロほど離れ、国際空港があることで知られる仁川市(インチョンシ)に属している。事件当時、大延坪島には約500世帯、1400人ほどが住んでいたが、事件後、島民のほとんどは本土に避難し、ソウル郊外のアパートを無償で提供されていた。しかし、家賃免除措置が前日で終わったことから、仁川港から延坪島に向かう高速フェリーには、島に帰る多くの島民が乗船していた。

 仁川から2時間半の船旅の後、フェリーは午後3時に延坪島の堂島(タンド)港に接岸した。その埠頭から眺める光景は、あの幾筋もの黒煙が立ちのぼっていた映像と二重写しとなった。島の復興事業のため、多くの建設労働者が滞在しており、旅館や民宿はほぼ満室で、辛うじて街から離れた島北東部の海兵隊アパート近くの民宿に泊まることができた。

 旅装を解き、さっそく北朝鮮が見えるという島南西部の灯台公園に行ってみた。晴れていたにもかかわらず、海上にはもやがかかり、北朝鮮を見ることはできなかった。大延坪島の北端から北朝鮮本土=黄海南道カンリョン郡ケモ里=までは、11キロしか離れておらず、その海上に“海の軍事境界線”といわれる北方限界線(NLL)が引かれている。東西3・5キロ、南北3キロ、面積は7平方キロ(大分県の姫島とほぼ同じ)という小さな島では、島民と海兵隊が共同で生活していた。海兵隊基地の前を通る島民に対し、歩哨は敬礼し「必勝(ピルスム)!」と叫ぶのには驚いたが、敬礼の際に声をかけるのは通例となっていると聞いた。

 軍用と民生用の兼用道路を車で走ると、至るところで軍事施設を見かけた。タイヤを積んで胸墻にした陣地を数多く見かけたが、何故か兵士の姿はなかった。高台から見下ろすと、向かい側の山の側面に、北朝鮮の砲撃に反撃した海兵隊の韓国製155ミリK9自走砲3輛が配置されているのが見えた(翌日は4輛に増えていた)。砲撃を受けた際に故障していたフェーズドアレイ(位相配列)式の板状の対砲兵レーダーAN/TPQ36も、道路脇にあるのを目撃した。

 また、巧妙にカモフラージュされた施設や、換気筒の存在に気付かなければ見逃してしまう地下施設などがあり、台湾の金門・馬祖を訪問したときの記憶が蘇った。

 金門島は中国大陸との最短距離が8キロ、東西20キロ、南北5~10キロで、面積は延坪島の19倍もあり、4万人が住む島全体が完全に要塞化されていた。台湾では「八二三砲戦」と呼ばれる1958年8月23日からの砲撃戦は、44日間に及んだ。中国人民解放軍は、初日の砲撃開始から2時間の間に、金門・馬祖に対して、4万発の砲弾を撃ち込んだという。

 台湾軍は金門島を「大陸反攻」の出撃拠点と位置づけ、基地の地下化を推進し、海に通じる坑道などを多数建設して、金門・馬祖の地下要塞化を完成させた。しかし、中国共産党は金門・馬祖を軍事占領すれば、台湾の独立を認める結果になることに気付き、武力制圧策を中止した。かつては10万もの大軍が駐屯していた“最前線の要塞島”は、緊張緩和後に兵力は1万にまで激減し、金門・馬祖は今では“安保観光の島”として、一部の地下坑道は観光客に開放されている。(続きは月刊正論5月号でお読みください

惠谷治氏

 昭和24(1949)年、東京都生まれ。早稲田大学法学部卒。学生時代は探検部で活躍。民族紛争、軍事問題、北朝鮮問題に精通。著書に「北朝鮮『対日潜入工作』不審船の目的は何なのか?」「北朝鮮の延命戦争 金正日・出口なき逃亡路を読む」「アフガン山岳戦従軍記」など。