雑誌正論掲載論文

石井英夫 世はこともなし? 海やまのあひだ

2011年05月11日 03:00

 それにしても「世はこともなし?」というタイトルの何と無知蒙昧(もうまい)で、頑迷固陋(ろう)で、倣岸不遜であったことか。「?」がついてなかったら、ここで筆を折るところだった。(月刊正論6月号

 三陸を襲った巨大地震の前に、小賢しいタイトルは木っ端微塵になった。あたかも各沿岸の防波堤が大津波に一呑みにされたように。

 しかし、各港の防波堤は、大津波の前に全く役立たずだったのか。3万人に達する死者・行方不明の前にどうしようもなく無益だったのか。いや、そうではないだろう。

 たとえば釜石港の最初の津波は高さ10・8メートルだが、防波堤の内部では高さ2・6メートルにとどまっていた。防波堤がない場合に比べると、市街地への浸水を六分間遅らせる効果があったという(港湾空港技術研究所調べ)。

 釜石市の死者・不明は千三百余人だが、防波堤がなかったらこの6分間で死者・不明は2000人に達していたに違いない。ちなみに宮古市田老地区の津波は高さ37・9メートルという巨大さだったそうだ。

 確かに防波堤は崩壊したり、乗り越えられたりした。しかし防波堤たちも必死になって津波の魔手に抵抗し、そのエネルギーを減殺した。防波堤は決して無益無力だったのではない。彼らの死闘もまた以って瞑すべきだと思われるのである。

 早春の青空の下、見渡すかぎりの瓦礫と廃墟のなかで、一本すっくと立つ松の木の新聞写真が目にまぶしかった。海岸沿いに7万本の松が並んでいた岩手県陸前高田市の高田松原で、津波に耐えた一本の松だけが残ったという。

 もう十数年も前だが、陸前高田市の大防波堤を見学し、高田松原を歩いたことがある。防波堤は市街地をすっぽりと包み、文字どおり“鉄壁”に思われた。松原は弓なりの砂浜に2キロにわたって続いていた。寛文7(1667)年に、地元の豪商が防潮のため約6000本の松を植えたということで、陸中海岸国立公園のなかの名勝だった。

 その“白砂青松”が消えた。陸前高田に限らず、三陸リアス式海岸の海と山のあいだにしがみつくように住みついてきた町村は根こそぎ壊滅した。少なくとも人が住む地域としての三陸は、相貌が一変したといっていいかもしれない。

 評論家・松本健一氏に『海岸線の歴史』(ミシマ社)というユニークな本がある。日本の海岸線は約3万5千キロメートルで、アメリカの1・5倍、中国の2倍。世界有数の海岸線の長い国だ。

「海岸は陸と海とが接触する場であると同時に、神と人間が接触する場でもあり、また生者と死者がそこで接触し、また相別れていく場所である」という。そうだから人びとはそこを離れようとしなかったのだろう。

 しかし松本氏によると、愛媛県松山市の隣の大洲(おおず)市のある神社はもともと海岸にあった。それが江戸時代に大波に襲われ大災害に遭ったため、海辺から10キロメートルほど奥の山のなかに移された。そして50年に一度だけ海辺に帰って神事をする。山のなかの神社だが、海の神を祭ってあるというのである。

 淡路島の若宮神社の祭りは、海から男たちが子供を抱えあげながら駆けて山の神社までたどり着く。急坂の山の中腹で海を見下ろす神事だという。これも津波などの海難を避ける海辺の人びとの祈りのわざかもしれない。

 『海やまのあひだ』は、国文学者・折口信夫(しのぶ=歌人・釈超空)の処女歌集のタイトルだが、三陸再生策の一つは、海と山の接点に住む人びとが海に近い家を捨てることができるかどうか、高台に住まいを置きかえることができるかどうかだ。

 菅首相も再生構想を明らかにしたが、その高台の住居から海岸沿いの水産会社や漁港まで通勤することが可能かどうかが一つのカギだろう。本誌5月号でも平川祐弘氏は「子々孫々のために住民が海岸線から離れて、山手に移り住むことを望みたい」と提言していた。

 3月31日の朝日新聞に、宮古市の南部、重茂半島の音部里(おとべさと)集落のルポがある。

 急峻な山に囲まれた音部里は19世帯の集落そのものが津波でなくなっていた。幅150メートルほどの港に向かって三角形の土地があり、人びとはワカメ、コンブ、ウニなどの磯漁業を営んでいた。明治29年と昭和8年の津波でも甚大な被害を受けたが、防波堤を強固にし、19世帯は住み残ったという。

「津波でひどい目にあったが、やっぱり海で働く。先祖は海で生き、家族を養ってきたから。孫たちのためにも漁を復活させる」と73歳の老漁夫は語っていた。“海やまのあひだ″に生きる人びとの意地と悲しさがここにある。

 ここで一つご報告することがある。

 前号の震災特集で書いた気仙沼の知人Fさん(藤田孝子)とYさん(柳希嘉子)とようやく連絡がとれた。藤田さんは経営する新聞販売店2店の1店を津波で流され、柳さんも住居を流され命からがら逃げのびたという知らせを受けた。

 藤田孝子さん(60)は女性自衛官出身である。ご主人と新聞販売店を営むかたわら、『ふれあい交差点』というミニコミ紙を読者に届けていた。震災後1週間でこれを復刊させ、安否情報を中心に「ガンバロウ気仙沼! 負けないぞ気仙沼」と呼びかけている。

 16年間、陸自の東北方面武器隊と音楽隊に所属していたせいか、音楽が好きで、かつて作詞作曲、歌まで歌った『演歌・まるごと気仙沼』のCDを被災者に配るという。

 千里万里の荒波越えて/板子一枚地獄の海に/命一つで働く男(ひと)の/無事を祈って笑顔で耐える/港女の心映(ば)え(ア、ヨイショ)/気仙 気仙沼(ア、ドッコイ)/帆待ち風待ち恋待ち港…

 「こんなときは元気が出るから演歌がいいと思うの」と藤田さん。そして、このCDを、「自衛隊は暴力装置」発言をした仙谷某に聞かせてやってもらいたい。(この他の論文は月刊正論6月号でお読みください

コラムニスト・元産経新聞論説委員 石井英夫

 略歴 昭和8年(1933)神奈川県生まれ。30年早稲田大学政経学部卒、産経新聞社入社。44年から「産経抄」を担当、平成16年12月まで書き続ける。日本記者クラブ賞、菊池寛賞受賞。主著に『コラムばか一代』『日本人の忘れもの』(産経新聞社)、『産経抄それから三年』(文藝春秋)など。