雑誌正論掲載論文
世はこともなし? 第75回 落語トモダチ作戦
2011年08月21日 03:00
今月の林家二楽さんの紙切りは、青い目の(色はついていないが)外人たちの前で紙を切っている図だ。彼らは一様に大きく目をむいて驚いている。二楽さんは7月になるとちょくちょく渡米する。バーモント州ミドルベリィ大学のサマースクールで開講される日本語学校に招かれ、10日間ほど紙切りを教えに行くのだ。もう5回目だという。日本語学校には100人ぐらいの学生がおり、年代も学力のレベルもいろいろらしい。(月刊正論9月号)
その学校長の畑佐一味(はたさ・かずみ)氏の報告(『中央評論』中央大学)がある。それによると、紙切りを初めて見る学生たちは、まるで奇跡を見たごとき反応をする。一枚の紙に下書きもせず、いきなりハサミを入れ、ほんの数分のうちに素晴らしい作品ができてしまう。学生たちは初めは「どうなるのかなあ」と半信半疑でみているうち、馬なり犬なりが現れ、「えーッ、すっげぇ」という喚声がわきおこるというのである。
二楽さんにいわせると「向こうの人は折り紙を見ても感激する。だから紙切りもすごく喜んでくれるのです。切った紙を見てスタンディングオベーションされたのは初めて。日本ではそんなこと絶対にないから、すごく刺激になる」そうだ。
これも一つの文化ショックだろう。
このサマースクールの落語講座には、毎年、柳家さん喬師と柳亭左龍師が出演する。さん喬さんはいまや東京落語界の大看板だが、むこうではラウンジにあったテーブルの上に、ソファのクッションの一つを座布団がわりにした即席の高座で「時そば」をやった。学生たちは落語の世界にひきこまれて、よく笑い、そして「すごい」という感覚をもったという。
「紙切り」という芸は「切り紙」と違って、日本固有のものだそうだ。お題をもらって、数分間で切りあげるというパフォーマンスは、他のアジアの国にも見られない。
講義には小咄をネタにすることもある。
患者先生、私、手術を受けるの初めてなんですが、大丈夫でしょうか。
先生 大丈夫ですよ。私も初めてですから。
これをまず暗記させる。繰り返し練習して、師匠について目線のことや仕草について指導を受ける。さらに座布団に上手に正座する仕方や、自分の出番がすんだ後は座布団を返すことなどを学ぶ。
初めは恥ずかしさが抜け切れなかった学生たちも、しだいに心の中に「笑いを取りたい」「受けたい」という気持ちが芽生え、師匠にいろいろ質問してくるそうだ。
本番となると、浴衣を着せてもらった学生たちは、緊張して順番を待っている。それをみたさん喬さんは、彼らの一人一人に声をかけ、背中を押して送りだす。
「舞台の袖でこうして緊張しているのにはプロもアマもありません。私たちもそうですよ」と。
アメリカ人たちはほっと安堵の笑みを浮かべ、深い達成感を味わっているというのである。これが異文化交流の輝かしい“教育”でなくて何であろう。
畑佐校長は「外国人に日本の笑いがわかるの?」という質問をよく受ける。「もちろん、わかりますとも」と胸を張って答えるそうだ。
こんどの東日本大震災で、米軍の最高司令官オバマ大統領はすぐさま反応し、米太平洋特殊作戦コマンドは仙台空港復旧の命を受けてハワイから飛来した。
史上最大の日米共同作戦は「トモダチ作戦」と命名され、最盛期の米軍は1万8千人の兵員と艦船20隻、航空機140機が活動。わが自衛隊は10万6千人、艦船60隻、航空機543機がフル回転した。米海兵隊員たちは風呂も暖房もない生活をし、ゴーグルもマスクもつけず黙々と瓦礫を片づけていた。
このトモダチ作戦の一番の収穫は、日米で、仕事の仕方のどこがどう違うかを大勢で実地に体験できたことだったという(『歴史通』7月号)。
二楽さんたちの異文化交流も、一つの“落語トモダチ作戦”とみていいのではないか。
国際交流といっても、同じ人間同士だから分かり合えないはずはないとタカをくくるのは危うい。そうかといって東は東、西は西、しょせん交わらないよと言い切るのも間違っているだろう。 世界には3000以上の言語があるという。1億3千万人が使う日本語は、使用人口の多い順に数えれば第9位だ。ちなみに1位は中国語、2位は英語。日本語はドイツ語やフランス語より使用人口は多い。国際社会でもっと重要性を増すと考えていいし、もっと胸を張ってもいいのではないか。
ところがちかごろはやたらカタカナ語が氾濫する。それが“知的だ”と錯覚するからだ。
国語学者の故・大野晋さんの指摘だそうだが、カタカナで「アイデア」といえばいかにも内容豊富のようにとる。それを漢語で「着想」というとそれほどでもなく、さらに和語で「思いつき」というと軽いつまらぬことのように聞こえる--とか。
カタカナ語の使用が英語を母国語とする人にどう受けとめられているか、気をつけなければいけない場合もある。
誤解されやすい言葉の筆頭は「スキンシップ」だという。性的なことを連想させるかららしい。
職場で日本人の同僚が「ゆうべ風呂で娘とスキンシップしたよ」と話していた。それを聞いて「警察に通報しようと思った」と驚いたアメリカ人がいたそうだ。(続きは月刊正論9月号でお読みください)
石井英夫(いしい・ひでお)
コラムニスト・元産経新聞論説委員。昭和8年(1933)神奈川県生まれ。30年早稲田大学政経学部卒、産経新聞社入社。44年から「産経抄」を担当、平成16年12月まで書き続ける。日本記者クラブ賞、菊池寛賞受賞。主著に『コラムばか一代』『日本人の忘れもの』(産経新聞社)、『産経抄それから三年』(文藝春秋)など。