雑誌正論掲載論文
世はこともなし? 第79回 藤沢周平の小さな年輪
2011年12月21日 03:09
先月号でわが町・東久留米市の名産?ホトケドジョウのことを書いた。ホトケドジョウはきれいな水を好む希少性の生物で、いま絶滅の危機にひんしている。
ところで東久留米の歴史でいえば、ドジョウではなく人間のことで、もっと記録されていい一コマがある。(月刊正論1月号)
あまり知られていないが、作家・藤沢周平が、一時期、町の住民であったことだ。この敬愛すべき大作家と同じ空気を吸い合っていた時があったことを、私はひそかに誇りにしている。大きく飛び立とうとする前年、彼はこの町で一つの年輪を刻んでいた。
藤沢周平の没後すぐ平成9(1997)年4月に、臨時増刊号として文藝春秋が出版した『藤沢周平のすべて』という雑誌があり、その巻末の年譜を読んでいくと次の項目がある。
「昭和45(1970)年、43歳。1月北多摩郡久留米町(現東久留米市金山町)2-10-2に移転」。
『暗殺の年輪』で直木賞を受賞した3年前、当時は日本食品経済社に勤めるサラリーマンだった。年譜を少し前に戻すと、
「昭和39(1964)年、37歳。『オール讀物』新人賞に投稿はじめる。この年、北多摩郡清瀬町(現清瀬市中里)都営中里団地に移転」とある。つまり彼は6年後に清瀬の団地から東久留米へ引っ越してきた。
この町での暮らしはどんなものだったか。
昭和38年生まれの長女・遠藤展子さんに『藤沢周平・父の周辺』(文藝春秋)というエッセー集がある。それにはこんなくだりがあった。「東久留米の家は中古の平屋の一軒家でした。坂の途中に、また右に上がる坂があった」「家の前には林が広がり、その林がまるで自分の家の庭のように見えるのでした」。家には左手に応接間があり、6畳と4畳半の和室、キッチン、フロ、トイレがあったという。
展子さんによると、藤沢周平の本名・小菅留治一家は、富士見台、清瀬、東久留米そして大泉…と転居したが、どこも少し行けば埼玉県という東京の端っこばかり。「お父さん、なんで西武線の沿線ばかりなの?」と聞くと、「何となく田舎の雰囲気が残っているのが気に入っている」と答えたそうだ。(続きは月刊正論1月号でお読みください)
コラムニスト・元産経新聞論説委員 石井英夫
いしい ひでお 昭和8年(1933)神奈川県生まれ。30年早稲田大学政経学部卒、産経新聞社入社。44年から「産経抄」を担当、平成16年12月まで書き続ける。日本記者クラブ賞、菊池寛賞受賞。主著に『コラムばか一代』『日本人の忘れもの』(産経新聞社)、『産経抄それから三年』(文藝春秋)など。