雑誌正論掲載論文
さらば立川談志、心の友よ いつかまた、どこかで会えるんだろう 石原慎太郎
2012年01月01日 04:05
立川談志が逝った。
彼との付き合いの始まりはよく覚えていない。
人生の友といえる存在は滅多にいないが、私にとって彼はまさしくその一人だった。若くして世に出て以来、それぞれの世界の名士、人物と出逢ってはきたが、振り返ってみて、ああ、俺にとってあの人がいた、あいつがいたなと思える、存在感のある人物は滅多にはいない。(月刊正論2月号)
たとえば、弟裕次郎が何かに書いた父に関する文章を目にしていたく感動し、向こうから言い出して、父を亡くしていた私たち兄弟の親代わりをやってくれた水野成夫氏や、30前の若造だった私の建言に耳を傾け、日本の演劇界に新しい風を吹き込むべく日生社長の弘世現(ひろせ・げん)氏を動かし、日生劇場誕生のために当時として45億、いまなら優にその10倍以上の500億円はするだろう大金を算段してまかせてくれた五島昇氏ら、単に恩恵を受けたというだけではなしに深く心のつながった人々がいるが、立川談志もそうした内の一人、人生の友だった。
談志と私を結びつけた奇妙な縁
奇妙な縁と言うしかないが、談志と私を結びつけたのは結果としてプロスキーヤーの三浦雄一郎だった。昭和46年の参議院選挙で三浦は、私の選挙組織を母体にした『日本の新しい世代の会』の全国区候補として出るはずだった。
前年、三浦がエベレストの頂上近いサウスコルから大雪渓をスキーで滑降するという冒険の総隊長をつとめた私は、その折彼から自分の祖父は青森から代議士に出たこともあり、自分としては一生スキーヤーで終わるつもりはなく、男の仕事として政治を選びたいのだという相談を受けた。『世代の会』の全国大会で彼の意思を仲間たちに諮ってみると、“冒険野郎″の三浦氏なら選挙もやりやすいということになり、私から当時の佐藤(栄作)総裁にも報告し、田中(角栄)幹事長に下ろしてもらって、三浦氏は自民党の全国区候補として最初の公認をもらって順調に運動がスタートしていった。
ところが、半年ほどするとどうも三浦の様子がおかしい。田中幹事長から私に呼び出しがかかり、出向いてみると、「おい、これはなんだい」と分厚い手紙を差し出された。田中幹事長宛で差出人は三浦雄一郎とある。中身を開いてみると、まず紙面のそこら中に割印が押されている。読むにつれ中身はいかにも異常、私の悪口が書き連ねてある。
あの男はスポーツマンと称しているが実際はインチキで、スポーツマンの風上には置けぬ。その証拠に、自分たちのサッカーチームと試合をした折、彼はプロの選手を大勢雇って来て、そのせいで自分たちは惨敗したがあれは汚いやり方で許す訳にはいかない、等々。
ちなみにその当時プロのサッカー選手などいないし、確かに彼らと対戦した私たちのクラブチームは、後の関東リーグの前身だったリーグ戦で日本鋼管に次いで準優勝したこともある神奈川県有数のチームで、仮借なく点を入れて一方的に勝っただけだ。角さんは、「おい、こいつは疲れているぞ。少し休ませろ、君がついていれば当選するんだから、今からあんまりしごくな」と。
それに合わせたように、三浦のスポンサーだった赤井電機の自身スキーヤーでもあった赤井三郎社長から会いたいと連絡があり、顔を合わすなりいきなり「おい、三浦は駄目だよ」。
「自分は猛烈社長として一代でこの会社を作った。社員も、腹が痛いだの肺病だのいったって、蹴飛ばして働かせりゃ大抵の病気は治っちまう。でも、たった一つどうにもならない病気がある。ノイローゼ、これだけはどうにもならない。三浦はそれだよ」と言う。
それで選挙に関し「これ以上やっても無駄だ、君も迷惑するよ。だから僕も今日限り手を引く。スキーのことでなら会うが、選挙では一切彼とは会わない。そう決めたからね」。確かに三浦はノイローゼになっていたのだと思う。彼のように日々節制して体を鍛えている男にとって選挙戦などという仕事は不規則で、たまらなく不安だったに違いない。長野での事前運動としての講演会の折、事前に会場の様子を見に行ったら、建物前の広場の真ん中の石畳にツェルトを張ってビバークしている者がいる。誰かと思ったら、中から三浦が生のキュウリをかじりながら出てきた。
「どうしたんだ」
「いやあ、僕はこうでもしてないと保たないんですよ」
照れたように言う。
私はそんな三浦氏にある強い共感を覚えながら、この選挙をきっぱりと諦めた。
とはいえ、私の組織としては誰かを立てぬ訳にはいかない。当選の見込みがありそうなら誰だろうと担いで走らないと組織がもたない時点にまで来ていて、そんな事もあって三浦に次いで正式の候補としたのが細川護煕だった。私自身は細川との面識はほとんどなかったが、細川は前の衆議院選挙に故郷の熊本から自民党の公認なしで出馬し、惨敗したものの次の選挙を目指しているとのことで、誰かの縁故から『世代の会』に加わっていた。我々としては改めて思いもかけなかった候補を担いで参議院選挙に向けて走る次第となった。
ところが選挙キャンペーンが推進されていくにつれ、応援する側に細川への言い難い違和感が醸し出されていった。私の選挙の折にはまさに鍋釜提げて馳せ参じてくれた、とくに東京在住の仲間たちが、三浦の折には口にしなかった不満や不安を表して細川への協力をはっきり断ってきた。たとえば人形町の老舗の若旦那とか、中にはかつての三月事件の首謀者の息子とかそのスポーツ仲間、あるいは彼らの馴染みのもういい年の芸者衆とか、私としては、あくまで遊びの折々にだが一目も二目もおかなくてはならぬような小粋な、いかにも趣味的でいなせで、世間が持て囃すブランドなんぞには全く無頓着の、自分自身のしたたかな価値観と感性を持つ連中。
東京に限らず日本の地方都市にもそうした連中と強い共感を持ち得る、ある種の成熟した人物たちはいるもので、知らぬ内に私の選挙が切っ掛けで彼らは彼らでそうした感性の共通項を媒介にした広い人間関係のようなものを持つに至っていた。そんな彼らが細川候補への協力に意が染まないという理由は、選挙戦が進むにつれて私も納得できるようになっていた。
彼らには、あの男はいかにも上っ面でしかなく、それに何よりあんたのために決してならない、あんたはただ利用されているだけだと何度も言われもし、確かにそれは後年、自民党の内紛のとばっちりで出来てしまった細川内閣なるものの惨状とまったく符合する、細川の人間的本質を衝いたものだったが、こちらとしては当時そんなことを言ってはいられないので、ともかく頼むと言ったのに、ならば俺たちはあんたのためにあの男よりは少しは役に立つはずの別の候補を擁立してやるからそれだけは了承してくれと言う。
質したら、それが立川談志だった。(続きは月刊正論2月号でお読みください)
石原慎太郎氏略歴
昭和7(1932)年兵庫県生まれ。一橋大学在学中の昭和30年、「太陽の季節」で第1回文學界新人賞、翌年第34回芥川賞を受賞。作家活動に入る。昭和43年参院議員に初当選。47年衆院議員初当選。環境庁長官、運輸大臣を歴任。平成7年在職25年を機に辞職。一貫して日米安保下でのアメリカ依存体質からの脱却と日本の自立を訴えてきた。平成11年東京都知事に当選(現在3期目)。「わが人生の時の時」(新潮社)、「国家なる幻影」(文藝春秋)、「弟」(幻冬舎)など著書多数。