雑誌正論掲載論文

世はこともなし? 第80回 放水路と青山士

2012年01月21日 03:47

 だしぬけになんですが、「放水路」という言葉が好きだ。

 字引(たとえば大辞林)を引くと「洪水防止、灌漑、水量調節などのために人工的に設けた水路」とでている。味も素っ気もない説明だが、放水路という言葉に対する私の感じ方は、もっと雄大というか雑多というか、清濁併せ呑むスケールのイメージである。ゴミやあくたが浮かんでは消え、時には猫や鼠の死骸も押し流して広い海に注ぎこむ、そんな流れを連想している。(月刊正論2月号

 じつはずっと昔、といっても昭和20年代の終わりだが、わが学生時代に仲間たちでガリ版の同人雑誌をだした。それに『放水路』という題をつけたのである。お定まりの3号でつぶれたが、この言葉に親しみと郷愁を持つのはそんな言語体験があるからかもしれない。

 まただしぬけに話が変わるが、東京を流れる荒川。先日はアザラシのアラちゃんが出没して話題になったが、この荒川がじつは“人工の川″であることをご存じだろうか。

 もともとは秩父の山塊に源を発し、隅田川の上流になっていた。それが荒川の名のとおり“荒れる川″で、明治の末まで毎年のように氾濫を繰り返してきた。そこで洪水を防ぐため、明治の末から大正にかけて隅田川の隣に新しく放水路を作ることが計画され、大正13(1924)年にこれが完成した。

 だからしばらく前まで、荒川は「荒川放水路」と呼ばれていた。私などはそう呼んだ時代が懐かしい。同人誌名に『放水路』とつけたのもそれゆえだった。

 さて11月24日のよる、何げなくNHKテレビ「ブラタモリ」を見ると、テーマが「荒川」だった。思わずひきこまれると、タモリ氏は「ここは来ないねえ。用事もなければ友だちもいない」などとつぶやいて、ぶらり荒川の土手を歩く。ほんとうにそうだ。そして洪水常襲地帯だった下町の歴史をたどり、放水路の川べりをたどりつつ岩淵水門に着くのだ。

 岩淵水門には赤門(旧)と青門(新)がある。タモリ氏は国土交通省荒川下流河川事務所の責任者に特別に案内され、実際に水門開閉の操作までするのだが、どうしたことか、ある人物の名前をださない。案内した河川事務所の責任者もその名を口にしない。

 そのことに私は大いに違和を感じ、もっといえばいささか腹を立てた。

 荒川放水路をつくった男、岩淵水門を設けて東京都民を洪水から救った男、青山士(あきら)技師のアの字も紹介しないことに憮然としたのだった。(コラムニスト、元産経新聞論説委員 石井英男=いしい・ひでお)

石井英男

 昭和8年(1933)神奈川県生まれ。30年早稲田大学政経学部卒、産経新聞社入社。44年から『産経抄』を担当、平成16年12月まで書き続ける。日本記者クラブ賞、菊池寛賞受賞。主著に『コラムばか一代』『日本人の忘れもの』(産経新聞社)、『産経抄それから三年』(文藝春秋)など。(続きは月刊正論2月号でお読みくださいでお読みください)