雑誌正論掲載論文

世はこともなし? 第118回 「私は無能」

2015年03月25日 03:00

コラムニスト・産経新聞元論説委員 石井英夫 月刊正論4月号

 その朝、怒り疲れた私はトロトロとまどろみ、短い夢をみた。いうならば〝一炊の夢〟だったが。夢のなかで82歳の老蛙生は、完全にキレた暴走老人となっていた。そして黒覆面の男を殺していた。

「このナイフはケンジを殺すだけではない。どこであっても日本人に虐殺をもたらし続ける。日本の悪夢が始まる…」

 そう言い放った男である。オレンジ色の囚人服の後藤健二さんを荒野にひざまずかせ、左手にナイフをかざした黒覆面のあやつである。

 2月1日の米CNNテレビは「日本は衝撃的な凶報でめざめた」と速報した。私は夜中、枕元のラジオをつけっ放しにしている。午前5時5、6分だったろう。津軽地方の聴取者の地方報告が始まったとき、〝凶報〟は老蛙生のウツラウツラの頭を衝撃した。ガバとはね起きテレビをつけたが、なぜかNHKはその荒野に後藤さんをひざまずかせた情景を流さなかった。民放各局に頼るほかなかった。

 なぜ流さなかったのか。映像が刺激的過ぎるとおもんぱかったのか。被害者の尊厳を傷つけるとでも判断したのか。しかし、後藤さんはたじろがず前方を凝視し、古武士のような毅然さを示していた。NHKの愚かな自己規制は、「イスラム国」の卑劣な非道さと、テロリストの残虐な理不尽さに目をつぶったのではないか。それこそ国民の知る権利を奪ったのではないか、そう思えてならなかった。

「犯人は必ず法の裁きを受けさせる」と安倍首相は痛憤していたが、老い先短い老蛙生にはそんな悠長な時間はない。ナイフでは黒覆面のこやつにかないそうにないから、ピストルがあればピストルで撃つ。丸太ん棒があれば丸太ん棒でなぐり殺す。なんとしても後藤健二の仇を討つ。夢の老蛙生はみっともないほど逆上していた。

 ところで〝一炊の夢〟からさめれば、日本人人質の行動と責任のありどころを考えないわけにはいかなかった。共産党や一部民主党など野党や評論家のなかには、安倍政権の人道支援そのものや中東歴訪の発言に問題ありとし、テロリストとの交渉のまずさを批判している。7日夕べのTBS「報道特集」の検証とやらも、その趣旨の批判報道だった。

 では、日本政府は狂気のテロリストと話し合いをすべきだったというのか。犯罪集団の要求に応じ、巨額の身代金を支払うべきだったとでもいうのか。ばかな。

 検証するとすれば、2人の日本人はなぜ危険な戦闘地域の「イスラム国」に足を踏み入れたのか。うち1人は「民間軍事会社」なるビジネス拡張のためではなかったのか。そしてなぜ人質になってしまう愚を犯したのか、酷なようだが、その経緯の検証のはずである。

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■ コラムニスト・元産經新聞論説委員 石井英夫 昭和8年(1933)神奈川県生まれ。30年早稲田大学政経学部卒、産経新聞社入社。44年から「産経抄」を担当、平成16年12月まで書き続ける。日本記者クラブ賞、菊池寛賞受賞。主著に『コラムばか一代』『日本人の忘れもの』(産経新聞社)、『産経抄それから三年』(文藝春秋)など。