雑誌正論掲載論文
連合国正戦史観を駆逐するインドの独立戦争史観
2015年02月15日 03:00
青山学院大学教授 福井義高 月刊正論3月号
私はインドのために生き、
そして死ぬ。
チャンドラ・ボース
歴史戦争の同盟国
安倍晋三首相が進める対外政策には、野党や公明党のみならず、自らが総裁を務める自民党においても根強い反対論がある。そのなかで例外的に広く支持されているのが、中韓を除くアジア及びアフリカ諸国との関係強化を狙った首脳外交であろう。
なかでもインドとの関係緊密化は際立っている。昨年8月から9月にかけて、ナレンドラ・モディ首相が来日した際、安倍首相は京都訪問にまで同行するなど計7時間余りも一緒に過ごし、親印姿勢を内外にアピールした。
対するモディ首相も安倍首相との夕食会で「インド人が日本に来てパール判事の話をすると尊敬される。自慢できることだ。判事が東京裁判で果たした役割はわれわれも忘れていない」と発言するなど、親日家ぶりを発揮した(2014年9月3日付『産経新聞』)。
この二人は欧米指導層から警戒されている点でも一致している。実は、モディ首相はそのヒンズー民族主義を危険視され、グジャラート州首相時代に起きた暴動での対応を口実に、政権を獲得するまで米国政府の入国禁止対象者となっていた。しかし、モディ政権が成立した途端、ジョン・ケリー国務長官は早速インドを訪問し、関係改善に動く。気に食わなくても損得勘定から、政権基盤が強固な大国のリーダーを敵視し続けたりはしない。相も変わらぬ、都合のいい米国の「良心」である。
さて、国内に投資機会が乏しい老大国日本にとって、今後さらなる経済成長が期待されるインドの経済的重要性はかつてないほど高まっており、強大化する中国と対処するうえで日印は政治的利害においても一致している。
そして何より、モディ首相の夕食会発言にみられるように、近年とみに激化する歴史戦争の最重要同盟国として、インドは日本にとってかけがえのない存在である。8月15日という日付は日本だけでなく、インドにとってもその歴史を画する運命の日なのだ。インドは日本敗戦のちょうど2年後の1947年8月15日に独立した。しかも、この二つの「8・15」は、一人のインド人を介して直接つながっている。
といっても、東京裁判史観から距離を置く日本人の念頭に真っ先に浮かぶラダビノード・パールのことではない。パールは偉大な学究である。しかし、本国では無名に近く、インド国民一般にアピールする力は残念ながらない。
それに対し、日本の戦いとインド独立を直接つなぐ人物のインドにおける声望は近年むしろ高まっている。終戦時に台北で亡くなった自由インド仮政府首班スバス・チャンドラ・ボースである。
ボース再考
なぜ今、ボースなのか。
まず、マハトマ(聖者)と呼ばれたモハンダス・カラムチャンド・ガンジー暗殺後、戦後インドに君臨したジャワハルラル・ネルーとその一族が政治の表舞台から去ったことが挙げられる。そのため、ネルーと生前ライバル関係にあり、ネタージ(指導者)と呼ばれたボースの評価が相対的に高まった。ボースは独立前に死んだゆえ、国民にとって失望の連続であった戦後インド政治と無縁のクリーンな存在でもある。
しかし、より重要な要因は、インド人自身の自己認識の変遷である。中国やパキスタンと対峙する上で、武力の重要性を痛感したインドは今や核保有国。経済的にも、中国と並ぶ新興国の雄である。軍事経済大国インドにふさわしいと国民が考えるのは、非暴力のガンジーではなく、力の重要性を誰よりも認識し、実際に大英帝国と戦ったボースなのだ。
1997年8月15日、インド議会は独立50年を祝って、3人の独立闘争の英雄、ガンジー、ネルーそしてボースの肉声録音を流した。その際、最大最長の拍手喝采を浴びたのはボースであった。
インドでの圧倒的声望にもかかわらず、ボースがそれに相応した扱いを日本で受けていないのはなぜか。それはまさにボースが日本とともにイギリスと戦ったからである。連合国にとってボースは悪の帝国日本の傀儡であり、当然ながら否定的評価が支配的である。欧米での評価すなわち東京裁判史観の支配下にある戦後日本の歴史研究がボースに冷淡であったのは、ある意味当然であった。
もちろん、アジアの解放という当時の日本の主張に、少なくともある程度の真実が含まれているという視点から、独立の闘士ボースに対する日本の支援を肯定的にとらえる著作も少なからず存在する。ボースから全幅の信頼を得、ともに英軍と戦ったF機関長藤原岩市少佐や国塚一乗少尉の手になる回想記はその代表例である。ただし、日本軍の問題点も冷静に指摘したこうした貴重な記録も、東京裁判史観論者にとっては「歴史修正主義」に基づく侵略戦争の美化でしかないのだろう。
しかし、近年米国で出版され、藤原少佐や国塚少尉の見方と比較的近い視点から書かれたボース伝『国王陛下の敵』には、安易なレッテル貼りは通用しない。著者のスガタ・ボースは歴史研究の主流も主流、ハーバード大歴史学教授なのだ。そして、その名からもわかるとおり、チャンドラ・ボースの縁者であり、正確には大甥(甥の息子)である。
『国王陛下の敵』は、インドの著名な歴史学者ルドラングシュ・ムカージーによって、現時点のみならず今後もボース伝の決定版であり続けるだろうと絶賛された。さらに欧米においても、例えば『ウォール・ストリート・ジャーナル』のトム・ライトがボースのインド国外での復権に貢献すると評するなど、その評価は高い。
主にこのボース伝の決定版と藤原及び国塚の回想記に拠りながら、日本軍のシンガポール攻略からインド独立までの軌跡を追う。
なお、本稿で、単に「ボース」とある場合はチャンドラ・ボースを指す。また、邦語文献引用の際、固有名詞は本文と統一した。
5万人-5万人=ゼロ
先の大戦に関しては、真珠湾攻撃に始まる日米の戦いがどうしても議論の中心になる。しかしながら、自存自衛の勢力圏を確保するという、戦略的により重要な戦いは、山下奉文中将率いる第25軍を主力とする、マレー・シンガポール攻略戦であった。日本軍の相手は、米軍ではなく、英インド軍を主力とするイギリス軍である。
英インド軍は将校を除いて主にインドの現地人から構成された軍隊であり、イギリス植民地支配を根幹において支えていた。ガンジーに率いられた反英独立運動の盛り上がりにもかかわらず、インド兵は大英帝国の忠実な僕であり続けた。日本と戦うまでは。
開戦前の1941年9月、参謀総長杉山元大将の特命を受け、藤原少佐がバンコクに派遣される。藤原は「大東亜新秩序の大理念を実現するために、インドの独立と日印提携の開拓を用意しつつ、まずマレー方面の工作に当」たることを自らの使命と理解した。インド独立史に名を残す、F機関長「メジャー・フジワラ」(Major Fujiwara)の誕生である。
本稿では藤原本人の意を汲んで、「藤原機関」ではなく、フリーダム、フレンドシップ、フジワラの頭文字をとった「F機関」と呼ぶ。
12月8日の開戦後、藤原率いるF機関は、マレー半島を南下する日本軍に対峙する英インド軍のインド兵を戦わずして次々に投降させる。なぜそのようなことが可能だったのか。藤原らはインド兵にアジア人としての連帯を訴え、単なる美辞麗句でないことを行動で示した。イギリス人将校による差別の下で生きてきたインド兵は、投降直後に藤原以下F機関員が一緒になって手づかみでインド料理を食べるのを見て感激する。
そして、12月31日、英インド軍下級将校だったモン・シンを司令官とする、インド人によるインド独立のための軍隊、インド国民軍(Indian National Army、INA)が創設される。
大英帝国のアジア植民地支配の拠点シンガポールは、結局、開戦からわずか2か月余の1942年2月15日にあっけなく陥落した。とはいえ、この勝利は奇跡だったともいえる。日本軍が自らと同様、3万人程度と想定していたイギリス軍は、実はインド兵5万人を含め10万人を擁していたのである。三分の一の兵力で攻撃戦を仕掛けるという、非常識極まりない「無謀」な戦いだったのだ。
しかし、F機関員国塚少尉の卓抜な表現を借りれば、イギリス軍は「英兵5万とインド兵5万で計10万の戦力にならず、5万マイナス5万でゼロとなった感じであ」った。F機関の工作により、降伏直前のイギリス軍司令部はもはや自軍のインド兵を信頼できない状況に追い込まれていた。
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■ 福井義高氏 昭和37年(1962年)京都生まれ。東京大学法学部卒業。カーネギー・メロン大学Ph.D. 旧国鉄勤務などを経て、平成20年より現職。専門は会計制度・情報の経済分析。著書に『会計測定の再評価』『鉄道は生き残れるか』(中央経済社)、『中国がうまくいくはずがない30の理由』(徳間書店)など多数。