雑誌正論掲載論文

在特会と大江健三郎~ヘイトスピーチを保守は認めない

2014年12月15日 03:00

拓殖大学客員研究員 岩田温 月刊正論1月号

 10月20日、私はいささか緊張しながら、パソコンの前に座った。大阪市長橋下徹と「在日特権を許さない会」会長桜井誠との間で「意見交換会」が行われ、動画で全編を視聴が可能との情報を得たからだ。しかし、実際には「意見交換会」とは名ばかりで、殆どが両者の罵り合いに等しい面会であった。

 私はこの激しい罵り合いを動画で視聴しながら、失望していた。この面会がヘイト・スピーチに関して幾許かの建設的な議論になると期待していたからだ。だが、期待は大きく裏切られた。期待を裏切ったのは桜井ではない。橋下である。

 冒頭に桜井が橋下に対して「ヘイトスピーチについてうかがえるか」と問うた。ヘイト・スピーチの定義を問うたのである。出来れば「ヘイト・スピーチの定義を示してほしい」と丁寧にきくべきだと感じたが、しかし、これは正当な議論の作法の範囲だろう。定義の曖昧なままで議論をしても無意味だからだ。ところが、ここで橋下は「ヘイト・スピーチ」の定義をせずに、「僕の意見を聞くんじゃなくて」といってお茶を濁す。ここから議論は開始早々にして、罵り合いの様相を呈し始める。

桜井「あんたが言い出したことだろう」

橋下「あんたじゃねえだろ」

桜井「おまえでいいのか、じゃあ? あのね、まずあなたが、ヘイトスピーチうんぬんて言い出したことでしょ。」

橋下「大阪で、そういう発言はもうやめろと言ってるんだ」

桜井「どういう発言なのかって聞いてんだよ」

橋下「民族とか国籍を一括りにして評価をするような、そういう発言はやめろと言ってるんだ」

桜井「朝鮮人を批判することがいけないって、あなたは言ってるわけ?」

橋下「お前な」

桜井「お前っていうなよ」

 両者の議論が噛み合わず、ただの罵り合いに終始することになったのは、「ヘイト・スピーチ」の定義をしないままに議論が進行していたからだ。橋下は「民族とか国籍を一括りにして評価をするような、そういう発言はやめろ」と言っており、この部分が橋下のヘイト・スピーチの定義、批判なのだが、もう少し丁寧な定義を心がけるべきだったであろう。これでは定義ではなく、命令である。しかも情けないことに、桜井に「朝鮮人を批判することがいけないって、あなたは言ってるわけ?」と反撃されると「お前」と罵って議論を避けてしまう。本来であれば、朝鮮人という集団を一括りにして批判するのではなく、個々の事例ごとに対象を明らかにしながら批判せよと応ずべき場面であった。この後、桜井が立ち上がり、橋下に掴みかかろうとするが、制止される。最早、議論ではない。

橋下徹VS桜井誠の過ち

 そもそもヘイト・スピーチとは何か。桜井が望んでいたように、議論はここから開始すべきなのだ。私であればヘイト・スピーチを次のように定義する。

「民族、宗教、性別、性的指向等によって区別されたある集団に属する全ての成員を同一視し、スティグマを押しつけ、偏見に基いた差別的な発言をすること」

「スティグマ」とは、いささか聞きなれない言葉であろうから、簡単に説明しておこう。

 古代ギリシアでは、人間の内面に問題があると判断された人々に対して、肉体的な烙印を押して大多数の「普通の人々」にその人物の異常性を知らしめようとする風習があった。奴隷、犯罪者、謀反人は、穢れた者、忌むべき者、避けられるべき者であるとされ、「普通の人々」から一目で区別することが可能なように烙印が押されたのだ。烙印を押されることによって、「異常性」が可視化され、「普通の人々」は、烙印を押された人間を避けることが可能となった。この烙印をスティグマと呼んだ。近年では、ある特徴を以て人々を分類し、そうして分類された集団の成員全員が同様の「異常性」を有していると断定する、差別意識に基いた精神的な烙印を「スティグマ」と呼ぶ。

 民族、宗教、性的指向(LGBT等)、いずれの場合においてもそうした集団に属する人々には共通の悪徳、劣等性が存在するものとされ、その集団に属する一員であるというだけで、「普通の人々」の持たない「異常性」を有した危険な存在であるとみなされる。例えば、「在日(朝鮮人)は嘘つきだ!」「あの宗教の信者は頭がおかしい!」という偏見が流布した場合、「在日である」こと自体、「ある宗教の信者である」こと自体が「嘘つき」や「頭がおかしい」ことの根拠とされてしまうのだ。こうしてメルクマール(指標)はスティグマと化す。本来であれば「あいつは在日だ」という言葉は、単純な事実を指す意味しかもたないはずだ。しかし多くの場合、その人物が「在日」という負の属性を背負った集団に属しているという非難めいた意味合い、あるいは暴露めいた意味合いを帯びている。少数者を指すメルクマールそれ自体がスティグマと化したとき、スティグマを押し付けられた集団には抗う手段が殆ど残されていない。

スティグマは捨て去れぬが…

 地上からこうしたスティグマを全て捨て去ることが可能であり、捨て去るべきだ。そう考えるのは、現実を忘れた余りに楽天的なリベラルだけだ。人間の生きるこの地球からスティグマが消えることは有り得ない。善かれ悪しかれ、人間は集団を区別し、自らの帰属する集団に途方もない愛着を示すと同時に、帰属せざる集団を嫌悪する生き物なのだ。そうした人間の性に思いを致せば、スティグマの消滅が、戦争の消滅と同程度に非現実的であることに気付くであろう。

 多くの人はある人が同郷だと聞くと、実際には全くの無関係でありながら、大いなる親近感を抱く。テレビを眺めてみても、「県民性」などという虚構(フィクション)を、客観的な真実であるかのように楽しそうに語りあっている。少し考えてみれば、同一の都道府県に住む住民の全てが同じ性格をしているはずがないことに気付くはずなのが、そうした論理を排し、強引な一般化を喜んでいる。別段、こうした帰属意識と共にある区別は出身地に限ったものではなく、出身高校や大学、そして時には血液型や星座、干支にまで及ぶ。

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■ 岩田温氏 昭和58(1983)年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修了。専攻は政治哲学。著書に『政治とはなにか』(総和社)など。共著に『ヘイトスピーチとネット右翼』(オークラ出版)。