雑誌正論掲載論文
世はこともなし? 第112回 鞠躬如たり
2014年09月25日 03:00
コラムニスト・元産経新聞論説委員 石井英夫
「エルニーニョ現象で冷夏になる」。それが気象庁予想だったのに、このくそ暑さは何なのだ。38度(豊田市)、39度(多治見市)という数字のせいもあっただろう。7月26日の朝刊写真を見て、老蛙生すなわち私の頭に血が逆流(のぼ)った。
血が逆流したというのは、例によって悪いくせの過剰表現だが、少なくとも不快な違和感を覚えた。違うよ、こりゃ違うよ、と。
写真とは、ソウルの大統領府で握手をする舛添要一東京都知事と朴槿恵大統領の図である。その写真のどこが不快だったのか。
舛添氏はうやうやしく身をかがめ、上目づかいの愛想笑いで朴女史を見つめている。まるで媚を売るかのような目つきで、背を丸めて握手している。いや、握手をしてもらっている形である。
その卑屈なパフォーマンスに、思わず「鞠躬如(きっきゅうじょ)」という文字が頭をよぎった。
手元の大辞林に「鞠躬如」は「身をかがめて恐れ慎むさま」とでている。語例に「――としてヘイコラする用人」とある。ついでに「へいこら」を引くと「(金持ちや権力者に対し)へつらい機嫌をとるさま。ぺこぺこ頭を下げるさま」である。
そうその通り、舛添都知事の姿は朴大統領に対し鞠躬如なのだった。
鞠躬如の語源を、近くの図書館へ行って大漢和辞典巻十二で引くと「論語・郷党」だという。「入公門、鞠躬如也。如不容」(公門に入るに鞠躬如たり。容れられざるが如くす)。そして「立つに門に中せず、行くに閾(しきい)を履(ふ)まず」と続いている。
吉川幸次郎の中国古典選『論語』上(朝日文庫)によると「公門は宮城の門で、門は何重かあったはずであるが、一番外の門を入るときから、(孔子は)すでにそうであったのであろう」。また門の中央の部分は貴い箇所だから、臣下ののるべきところではないから、その延長線の上に立つことはなかった。敷居はまたいで越すだけにし、その上にはのらなかった、とばか丁寧に説明している。
孔子と同じように、舛添氏もソウルの青瓦台で、門に中せず敷居も踏まずだったのだろう。
さて問題の会談で、朴大統領は何を語ったのか。彼女は土偶のような表情で、またぞろ「正しい歴史認識」と「慰安婦問題」を持ちだした。中身は書くまでもないから書かないが、・正しい歴史認識・というなら、松木国俊氏の近著『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』(ワック)を読めばわかる。それは韓国にとって・不都合な真実・以外の何物でもない。
続きは正論10月号でお読みください。