雑誌正論掲載論文

世はこともなし? 第110回 一夜城と小田原評定

2014年07月25日 03:00

コラムニスト・元産経新聞論説委員 石井英夫 月刊正論8月号

 学校を出て半世紀がとうに過ぎたが、いまも同じクラス仲間で年に何回か飲み会をしている。この初夏某日、その仲間六人と伊豆熱海で会い、翌日、小田原へ出た。

 16世紀末、小田原を攻めた豊臣秀吉の一夜城に登り、そこから小田原城を見ようと思い立ったのである。

 といっても80の坂を越した老人たちだから、最寄りのJR早川駅から50分という登り坂を歩いてはいけない。小田原駅からタクシーにのり、ミカン畑の山道を十数分、料金1700円で「国指定史跡」の標識がある石垣山一夜城趾に着いた。標高261メートル。駐車場つきの広場と1軒のレストランがあった。

 快晴新緑の城趾への坂道を息せき切って登ると、曲輪(くるわ)があり、二の丸跡の広場がある。紫と黄の斑(ふ)が入った白いシャガの花が咲き乱れていた。さらに坂を登ると木立のなかに本丸跡があり、そこから小田原の市街が一望できた。

 天正18(1590)年4月、秀吉は小田原城の北条氏政・氏直父子を攻め、この石垣山に陣営を築いた。小早川隆景の献策だという。包囲した秀吉軍は細川忠興、池田輝政、宇喜多秀家など20万。相模灘には長宗我部水軍などもひしめいた。守る北条勢は5万。

 秀吉の本陣は世にいう〝一夜城〟だ。だからハリボテ同様で、城の前面は杉材に白紙を貼って白壁の城郭に見せかけた。難波から淀君や千利休を呼び寄せて茶会や酒宴を催し、大名たちの家族も呼んで、持久戦に備えさせた。そして頃合いをみて、小田原城を見下ろす側の木々を一斉に切り倒させたという。

 さあ、突如として山上に出現した白亜の大城塞に、小田原城の守兵や小田原の町人たちは文字通り仰天した。度胆を抜かれて上を下への恐慌になった、といわれている。

 まさに「孫子」謀攻篇の用兵である。戦争の原則は「敵国を傷つけずそのままで降伏させるのが上策」だ。7月5日、北条氏は降伏する。小田原の町人たちもおかげで戦火を免れた。

 ビジュアルな奇想というか、虚仮威(こけおど)しの鬼謀というか。いかにも秀吉らしい知略というほかない。小田原攻めはみごとな成果を収めた。

 しかし待てよ、である。あまりに話がうま過ぎるではないか。緑濃い石垣山の風に吹かれて、これも秀吉神話の一つかと考えた。だいいちに〝一夜城〟と呼称はいうが、秀吉は築城に八十余日を要している。近江の穴太(あのう)衆の石積みをはじめ、5万の作業人が連日、山上まで建築材を運び入れた。

 いくら隠密裡にといっても、3ヵ月もかかった築城の騒ぎが小田原の城内や町人にわからないはずはない。たぶん歌舞伎の筋立てと同じく、攻める方も守る方も、百も承知。双方で何もかも知りながら攻防に幕を下ろす。秀吉の知略に花を持たせ、秀吉の神話を成立させながら物事を収める。

 それが戦国の美学であり知恵だったのではあるまいか。これはこれでいいことだ、そんな気がしてならなかった。

 はつなつの薫風が吹き過ぎる本丸跡で、もう一つ思ったことがある。

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■ コラムニスト・元産經新聞論説委員 石井英夫 昭和8年(1933)神奈川県生まれ。30年早稲田大学政経学部卒、産経新聞社入社。44年から「産経抄」を担当、平成16年12月まで書き続ける。日本記者クラブ賞、菊池寛賞受賞。主著に『コラムばか一代』『日本人の忘れもの』(産経新聞社)、『産経抄それから三年』(文藝春秋)など。