雑誌正論掲載論文
世はこともなし? 第108回 塩屋埼へ行った
2014年05月25日 03:00
コラムニスト・元産経新聞論説委員 石井英夫 月刊正論6月号
いきなりでなんですが、塩屋埼へ行った。みちのくの南端・福島県いわき市の塩屋埼灯台へ行ってきた。
少し順序立てて書くと、この彼岸休みに、かつて『正論』で販売を担当していたO君の墓まいりに誘われたのである。『正論』はとても人間臭い職場だ。人情味ゆたかと書くといささか手前みそになるが、O君は『正論』販売に尽力し、某テレビ局に移ったが病を得て2年前の冬、他界した。それを悼んで『正論』K編集長らが、O君の郷里茨城県ひたちなか市に三回忌の墓参をしてやろうという。その墓参仲間に入れてもらったのだが、ついでに塩屋埼へ行くと聞いて、にわかに旅心をそそられたのだった。
墓参の仲間は平成24年7月号の小欄「津軽の人と散る花」で書いたメンバーと同じで、塩屋埼を訪ねてみたかったわけは二つある。
一つは、太平洋につきでた海の道しるべが東日本大震災にやられた話は知っていたが、どんな被災だったのか。そして現状はどうなのか。
もう一つは、かつて酒席で船村徹さんから塩屋埼はおかしなところだと聞いていたからである。船村さんは美空ひばりの名唱『みだれ髪』の作曲家で、こんな話をされた。「星野哲郎と一緒に塩屋埼に行ったことがある。塩屋埼とは何もないところで、海にやたらゴミが浮いていた。そのゴミだらけの岬を舞台に、『みだれ髪』なんて詩をつくっちゃうんだから、詩人というやつはすごいよ。憎や恋しや塩屋の埼…なんて。星野はたいへんな作詞家だ」
もちろん酒の席だから面白おかしく話をつくったのだろうが、『みだれ髪』の舞台はそんな荒廃たる岬なのか。そして詩人星野は散文的な風景をどう詩景化したのか。
さて車はひたちなか市から常磐自動車道を高萩、小名浜をぬけ、いわき市へ入った。いわき七浜と呼ばれる海岸線から白い灯台が見えた。薄磯という集落へ入ると、目に入るのはぼうぼうと草の生えた更地だ。家々を支えていたと思われるコンクリートの土台、土台、土台が並ぶ。家屋は津波で流されたのだろう。折から彼岸だったから、その土台のあちこちに生花が供えられていた。
3時間ばかりで塩屋埼へ着いた。高さ50メートルの断崖の上に灯台が立ってる。息を切らせて急坂を登ると、目の前に白亜の灯塔がそびえ立っていた。なんだ、なんだ、震災の影響はなかったらしいぞと思いきや、なんと大被害を受け、この3年間ずっと閉鎖されていたという。参観を再開したのはこの2月22日。まる3年の修復工事が完了したばかりということだった。
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■ コラムニスト・元産經新聞論説委員 石井英夫 昭和8年(1933)神奈川県生まれ。30年早稲田大学政経学部卒、産経新聞社入社。44年から「産経抄」を担当、平成16年12月まで書き続ける。日本記者クラブ賞、菊池寛賞受賞。主著に『コラムばか一代』『日本人の忘れもの』(産経新聞社)、『産経抄それから三年』(文藝春秋)など。