雑誌正論掲載論文
世はこともなし? 第107回 北斎のベタ凪
2014年04月25日 03:00
コラムニスト・元産経新聞論説委員 石井英夫 月刊正論5月号
この冬、東京・両国の江戸東京博物館でひらかれた「大浮世絵展」はたいへんな混雑だった。とくに目的もなく、ただぶらりと訪れたのだが、会場に展示されていた葛飾北斎の小さな海の錦絵に釘づけにされてしまった。
といっても高名な傑作『神奈川沖浪裏』や『凱風快晴』などではなく、おどろおどろの『百物語お岩さん』のような怪談ものでもない(北斎が得意とした春画は出品されていなかった)。
ひきつけられたのは、大判の錦絵にはさまれた新聞紙1枚ほどの地味な中判錦絵『千絵の海 相州浦賀』と題された一幅である。相州浦賀とは、わが生まれ故郷であるからだ。北斎が浦賀に来ていたことは何かで読んで記憶していたが、こんな錦絵を描いていたとは全く知らなかった。
その小さな錦絵は、波静かな海が全面に広がり、遠くに半島らしき山影がかすみ、手前からつきでた磯に釣り人が4、5人いる風景だった。解説書きがついているが、混雑する人の頭が邪魔で読むことができない。あとで2900円もしたカタログを買い求めると、こう説明されていた。
「千絵の海は、北斎が富嶽三十六景や滝・橋の揃物など風景画の連作に集中していた70代の作品の一つ。(中略)本図の『相州浦賀』は、現代の横須賀港の入り口、燈明崎にあった常夜灯近くでの、釣りの様子が描かれる。手前の釣り人は釣り上げたところ。左側の岸を湾曲させて描くさまは、地球の丸さを表わそうとしているかのようだ」うんぬん。
海はベタ凪で、ごくごく穏やかで平凡な磯の姿だが、しかしこれぞまさにわが故郷の風景だ。懐かしさがこみ上げてきた。湾曲して描かれた岸辺は、生まれた地そのもの。説明書きにある燈明崎が横須賀港の入り口という掲示は正確でない。正しくは浦賀港の入り口である。燈明崎はいま西浦賀(昔は川間という地名だった)のはずれの崎で、幼いころによく遊びで訪れたところだった。
江戸後期の浮世絵師・葛飾北斎には、その出生や度重なる改名と諸国放浪と転居などなお解明されないなぞがいっぱいある。なにしろ引っ越しだけで生涯93回もあったというのだ。その1回に浦賀があったのか。何のためにやってきて、どこに住んだのだろう。
わが書架にあった飯島虚心著『葛飾北斎伝』(岩波文庫)、瀬木慎一著『画狂人北斎』(講談社現代新書)、高橋恭一著『浦賀奉行』(学芸書林)などを引っ張りだしたが、不明だらけだった。
それら資料によると、北斎が浦賀に来たのは天保5(1834)年の冬か、翌6(1835)年の春、76、7歳のころだ。70代半ばながら最も強烈な制作欲と創造力をみせた時代である。その浮世絵の大家が、なにゆえ相州浦賀くんだりの漁師町に〝潜居〟したのか。
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■ コラムニスト・元産經新聞論説委員 石井英夫 昭和8年(1933)神奈川県生まれ。30年早稲田大学政経学部卒、産経新聞社入社。44年から「産経抄」を担当、平成16年12月まで書き続ける。日本記者クラブ賞、菊池寛賞受賞。主著に『コラムばか一代』『日本人の忘れもの』(産経新聞社)、『産経抄それから三年』(文藝春秋)など。