雑誌正論掲載論文
何サマや最高裁! 婚外子・性転換「父」子裁判の浅慮と傲慢を糺す
2014年02月15日 03:00
評論家 西部邁/高崎経済大学教授 八木秀次 月刊正論3月号
昨年12月に、最高裁判所が示した一つの判断は、大きな驚きを以て迎えられた。性同一性障害特例法に基づいて戸籍上の性別を女性から変更した「男性」と、第三者の精子提供で「妻」が産んだ男児との関係について、「嫡出子」、つまり法律上の実子と認める決定をしたのだ。新聞を中心にした報道は、「夫婦」の希望をかなえたこの判断を前向きに評価したが、生物学上の女性である「男性」と、男児との間には当然、全く血のつながりはない。にもかかわらず、養子ではなく、実子と認めることは本当に法の趣旨にかなったことだったのだろうか。いかに生殖医療が発達したとはいえ、白のものを黒というが如き行為が、司法に許されるのだろうか。最高裁は昨年9月、法律上の夫婦の子供ではない婚外子の法定相続を、嫡出子の半分と定めた民法の規定を違憲と判断したが、この決定もまた、家族を守ろうとする民法の趣旨をねじ曲げるものであった。司法の頂点たる最高裁は、いまなぜ驚くべき判断を連発するのか。評論家の西部邁氏と高崎経済大学教授の八木秀次氏が徹底的に論じた。
(編集部)
「法の賢慮」なき法解釈
八木 一連の最高裁の判断を見て、私は最高裁は変質したのではないかと、強い危機感を覚えています。裁判官にはおかしな人もたくさんいて、下級審では、これまでにもおかしな判決はたくさん出ていますが、最高裁のレベルでは、おおまかにいえば、常に国民の常識に沿った判断を出してくれていたわけです。ところが、ここのところを見ると、明らかに違和感がある。
最高裁判事の人選がおかしいのかといえば、そうとも言い切れない。極端に左翼的な政策を進めた民主党政権時代に任命された人たちが出した判決ではないのです。例えば、9月に婚外子の法定相続について嫡出子と差をつけることを違憲とした判断は、関わった14人の裁判官の全員一致の決定でしたが、14人の中には第二次安倍政権になって任命された判事が3人も含まれていました。1人ぐらい、常識を働かせる裁判官がいてもいいはずなのに、いなかった。
性同一性障害の「父」と「子」に関する判断では、論理構成が中学生でも立てられるようになっている。民法772条に「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」とあるから、たとえ生物学上、女性であっても、結婚している限り、「妻」が産んだ子供は実子だと認めるというのです。
婚外子訴訟で、埼玉大学名誉教授の長谷川三千子氏が指摘されたことでもありますが、法解釈には「ジュリス・プルーデンス」(法の賢慮)が求められる。法学を英語やフランス語、ドイツ語でjurisprudence(Jurisprudenz)というのは、法的な賢慮を発見するのが法学者の役割だからです。杓子定規に法律の条文を持ってきて、それに当てはめるのは誰にでも出来ます。そうではなく、そこに賢慮を働かせてきたのがこれまでの最高裁なのに、そういうものがまったく窺えない。
過去の最高裁の判断には、賢慮が窺えるものが多くありました。例えば、尊属殺人について死刑か無期懲役のみと定めていた刑法を解釈した昭和47年の判決です。これは、29歳の女性が実の父親を殺した事件をめぐる裁判なのですが、被害者の父親は、加害者の娘をレイプして、子供を5人産ませていたうえ、娘がその過去を受け入れてくれた男性と結婚すると打ち明けると、殴る蹴るしていました。女性は思いあまって父親を殺してしまったのです。当時の刑法では尊属殺人の罪になり、死刑か無期懲役かどちらかしかなかったわけですが、最高裁はこの件は、特殊で、非常に気の毒なケースだとして、有期懲役があり、執行猶予が付く一般殺人罪を適用したのです。その前段階で、一般殺人と尊属殺人を区別することは、これは尊属に対する報恩の情を重視する国民道徳を反映したもので、重く罰することにも問題はないが、その程度が厳しすぎるという判断を示しました。これは、まさに常識的な判断で、言ってみれば「大岡裁き」です。
他にも、日教組が起こした教育裁判や左派系の労組が起こした労働裁判においても常識的な結論を出して来ました。政教分離を定めた憲法についても、日本の政治文化と宗教と折り合いを付けるような判断をしていました。そこにはやはり賢慮があったのです。
西部 八木さんの御意見に全面的に賛成です。かつては国民の常識に、一応、プルーデンスがあったが、それがなくなったと、言うべきかもしれません。
そもそもいまの国民の常識、国民の姿が曖昧なのです。みんなしてグローバリストで、日本の国籍を離れても構わない、日本語が話せなくても英語と計算機のプログラムが出来ればいいといったようなご時世ですから、国民性というものがおぼろになっている。のみならず、同じ事かも知れませんが、コモン・センス、つまり常識というものがどんどん薄らいでいる。コモン・センスというのは共通の感覚・知覚ですが、何を以て共通かというと、時間において、過去、現在、未来において、あまり大きく変わらないという感覚・知覚であり、空間において、国家という枠において、北でも南でも東でも西でも、地方差はあるだろうけれども、ある種の共通な感覚・知覚のベースです。それがどんどんおぼろになっているわけですから、最高裁にインチキトンチキな判事が現れるのも、やむを得ないなと。これは最高裁を弁護して言っているわけではないです。僕は、年のせいもあって、衆愚の代理人が権力の座に就くことに怒る気もしない。
日本という国家が戦後になってほどけて、平成に入ってほどけっぱなしですが、それに合った出来事が起こったのだということを、まずおさえておかねばならない。いまの全体状況のひどさを考えると、怒ったり、悲しんだりする筋合いの話ではないと思います。
問題はコモン・センスを支えるものは何か。まず一つは、「法治」「法の支配」と言いますが、日本では、その認識が完全に間違っているのです。まず法があって、その中に最高位の憲法があって、それが絶対の基準であって、それに従って法律が作られ、法律に従うのが立法であり行政であるというのが「法の支配」と考えられます。しかし、少し、真面目に考えてほしい。憲法を読むと、11条には基本的人権をいい、12条に自由及び権利、13条で個人の尊重、14条で法の下の平等をいっているが、それぞれいかようにでも解釈できるのです。「基本」とは何ぞや、「人間」とは何ぞや、「権利」とは何ぞや、「自由」とは何ぞや、「尊重」とは何ぞやと考えていったら、いろいろな解釈、法の運用が可能なものなんです。
それを解釈する杓子定規はどこから来たかというと、戦後、アメリカから来たものです。アメリカのことはさておくとして、例えば、戦後的な人権主義とか個人主義とか自由主義とかいう観念には、不動な解釈があって、それを当たり前のこととして受け取っているものだから、わざわざ解釈の努力をしないわけです。性同一性障害ならば仕方ない、子供が欲しくなるのは自由じゃないの、個人を尊重した方がいいんじゃないの、といった調子の、戦後68年間続いてきた、ある種、非常に薄っぺらな固定された杓子定規の解釈がある。それは近代主義といってもいいけれど、近代主義の権化としてのアメリカ的なものの決め込み方、日本人はその毒水を山ほど啜って、そういう解釈しかできなくなったということなんです。
国民もできないし世論もできないし、そして、とうとう最高裁の判事もそういう解釈しかできなくなったということなんです。法律的な杓子定規で解釈し、適用していると思っているけれども、実は杓子定規ですらない。それはアメリカ的なるものの考え方、感じ方、決め込み方、そういうものが日本の国土の上から下まで、左から右まで染み渡ってしまったということの反映として、今度のような判断が出てきてしまったということなのです。最高裁に言わせれば、判断の基準は常識に基づくのかもしれない。しかし、それは日本人の歴史的に形成されて来た常識ではないんです。敗戦、属国、従属、奴隷民族に68年間、埋め込まれた人工的な、歴史性とか国民性を欠いた杓子定規であり、解釈の規則というものが、今度の判断をもたらしたのだと思うわけです。
八木 法の支配の話が出ましたが、「法の支配」の「法」とは何なのかというと、憲法でもなく、法律でもなく、これはイギリスでいえばコモン・ロー、ドイツのかつての言い方でいうと「古き良き法」です。ドイツ語で法のことをRechtと言いますが、Rechtとは正しさ、歴史の中で徐々に踏み固められてきた正しさの感覚。つまり歴史感覚です。そういうものに、いかなる時代の為政者であろうが、支配されている、抑制を受けているのだということです。そういう感覚を「法の支配」と言っているのです。
今年1月3日付の朝日新聞社説が「法の支配」について触れているのですが、これが完全な出鱈目で、朝日新聞の主張では、「法の支配」というのは「憲法の支配」なのです。日本国憲法に指一本触れるべきではないという内容なのですが、「憲法改正に反対」というために「法の支配」を持ちだしてくるというのは噴飯もので、その感覚自体に問題があるのです。最高裁も同じで、歴史感覚が全くないのです。
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■ 西部邁氏 昭和14(1939)年、北海道生まれ。東京大学経済学部卒業、同大学院修了。横浜国立大学助教授、東京大学教養学部教授を経て、評論活動に入る。秀明大学学頭などを歴任。著書に『大衆への反逆』、『思想の英雄たち』、新刊の『中江兆民─百年の誤解』(時事通信社)など多数。
■ 八木秀次氏 昭和37(1962)年、広島県生まれ。早稲田大学法学部卒業、同大学院政治学研究科博士課程中退。専攻は憲法学、思想史。「日本教育再生機構」理事長。新刊の『憲法改正がなぜ必要か』(PHPパブリッシング)など著書多数。今年1月より、法務省「相続法制等に関するワーキングチーム」委員。