雑誌正論掲載論文

世はこともなし? 第103回 大師堂さんの遺書

2013年12月25日 03:00

コラムニスト・元産経新聞論説委員 石井英夫 月刊正論1月号

 私の手元に、大師堂経慰(だいしどう・つねやす)さんの〝遺書〟がある。

 遺書と書いたのは私の勝手な思いこみだが、「慰安婦問題」をめぐるこの人の公憤と痛嘆をこめた文集は、この世に残した書き置きであり、遺言であると思えてならない。あるいは抗議といってもいいだろう。文集はB4判で18ページのリーフレットと「石井英夫先生」宛ての私信1ページから成っている。

 大師堂さんは平成22(2010)年11月、92歳でこの世を去っており、文集は22年8月15日の日付だから、事実上の遺書である。生前、何度も達筆の万年筆のお手紙を頂戴したが、若僧の私を先生扱いしているのはこの人の過剰な謙徳にほかならない。18ページの文集のタイトルは「慰安婦問題の徹底検証」で、「理不尽に傷つけられている日本の名誉回復」のサブタイトルがついていた。

 10月16日、産経新聞が元慰安婦調査報告書についてスクープを放ったことは知られている。本誌『正論』12月号も「韓国人慰安婦16人からの聞き取り調査報告」を掲載した。大師堂さんの〝遺書〟は、報告書のズサンと「河野談話」のギマンを厳しく弾劾するもので、まさに産経スクープに先行する内容だった。

 大正6(1917)年に生まれ、京大経済学部を出た大師堂さんはこの問題の大先達で、『慰安婦強制連行はなかった』(平成11年、展転社)という著作もある。そして私宛ての1ページにはこういう一節があった。

「私は朝鮮に生まれて小、中学校を卒業し、高校と大学は内地で過ごしましたが、昭和16年12月卒業と同時に朝鮮総督府に入り、終戦を迎えた時は農商局事務官として、繊維行政を担当しておりました。家は京城から南へ三十キロにある黒橋という小さな町で、父は終戦までそこの郵便局をやっておりました。

 田舎で育ち、子供の頃から引き揚げまで近所の朝鮮人家族とはオレ・オマエの交際をしておりましたから、慰安婦問題の対応には早くから関心があり、宮沢内閣による謝罪や河野談話は絶対に間違っていると確信をもっていました…」

 大師堂さんの遺書を詳述するには紙数がないが、連合軍内部作成の調査報告書も引用している。一部を引いてみよう。1944年8月(=つまり敗戦の1年前だ)、ビルマのミートキーナで自分の妻と20人の慰安婦とともに捕虜になった民間朝鮮人慰安所経営者の証言である。

「慰安婦は売上げの半分を受領し、自由な通行、食料と医療は無料という条件で雇用されていた。家族への前渡金や利息を弁済すれば自由に朝鮮へ帰ることができた。自分の慰安所では慰安婦の平均収入は月あたり300円から1500円だった」

 大師堂さんはこう注釈している。朝鮮では一番偉いのは知事さんで、その知事の年俸は3500円から4000円ほどだった。上記の慰安婦の月収は知事の月収よりかなり多かったことになる、と。

続きは正論1月号でお読みください

■ コラムニスト・元産經新聞論説委員 石井英夫 昭和8年(1933)神奈川県生まれ。30年早稲田大学政経学部卒、産経新聞社入社。44年から「産経抄」を担当、平成16年12月まで書き続ける。日本記者クラブ賞、菊池寛賞受賞。主著に『コラムばか一代』『日本人の忘れもの』(産経新聞社)、『産経抄それから三年』(文藝春秋)など。