雑誌正論掲載論文
P・マッカートニー来日記念 いつだってビートルズ
2013年11月15日 03:00
コラムニスト・上原隆 月刊正論12月号
11年ぶりにポール・マッカートニーが来日する。アメリカで今回のツアーを観た人の話によるとビートルズの曲を多く演奏するらしい。4人組が解散してからすでに42年が経つ。ポールも71歳になった。ビートルズがデビューしたとき中学2年生だった私は64歳になった。多くの時が流れた。
ビートルズに「ホエン・アイム・シックスティ・フォー」という歌がある。アニメーション映画『イエローサブマリン』の中で、チビでデブの老人が体をくるくる回転させながら、歌っていた(記憶だけで書いているので違っているかもしれない)。19歳だった私は、自分が64歳になるなんて思いもよらなかった。
ビートルズ以前、私はアメリカのポップソングをきいていた。パット・ブーンやコニー・フランシスが好きだった。甘い綿菓子のような歌だ。そこにビートルズが現れた。最初、雑然とした音にしか感じられなかった。何度もラジオできくうちに魅力がわかってきた。リズムに体が反応し、これぞ自分たちの音楽だと思った。アメリカのポップソングと違って、彼らは自分たちで作詞作曲し演奏していた。その頃、イギリス各地から少年たちのバンドが続々と現れた。デイヴ・クラーク・ファイヴ、ハーマンズ・ハーミッツ、スウィンギング・ブルー・ジーンズ、アニマルズ……。彼らの音楽は、日本ではリバプールサウンドと呼ばれた。どのグループも演奏はそれほど上手ではなかった。そこが良かった。リバプールの熱は私の住む横浜にまで届いた。いや、日本全国に届き、少年少女たちは熱にうかされた。自分たちだって何かできるんじゃないかと思った。いまでいえば、AKB48を観て、〈自分だってアイドルを目指して良いんだ〉と思う少女たちと似たようなものだ。
自分だって何か表現したい、そう思った。しかし、地道な努力のできない怠け者の私は、ギターのコードを押さえて指先が痛くなると、安いギターがいけないのだとギターのせいにした。デッサン教室の退屈さに耐えられずに、早く油絵を描かせてほしいと先生にいって無視された。文章が上手になるには日記をつけなさいと国語の先生にいわれ日記帳を買ったが、1日書いただけであとは真っ白なページが残った。結局、努力と技術のいらない表現は映画監督しかないと信じこんだ。まったくのお調子者。
そんなわけで、大学を卒業して映画会社に入ったのだが、もともと才能のない私は、自分の思うような映画監督にはなれなかった。長い間、生活費を得るために映画制作の仕事を続けた。それでも、表現したいという思いは強く、会社を辞めて、ノンフィクションの書き手になることにした。そのときすでに私は50歳になっていた。
すべてはビートルズからはじまった。
私は思い出す。中3の夏休みの夕暮れ、片想いの秋本さんを思い出して胸が苦しくなっているとき、ラジオからビートルズの「アンド・アイ・ラブ・ハー」が流れてきたことを。
映画会社にいた頃の話。
15歳下の男性が会社に入ってきた。彼はビートルズが好きだという。
「彼らによってポピュラー音楽の歴史は大きく変わったんです。ビートルズ以前と以後ではぜんぜん違うんですよ、上原さん」という。
私はムッとした。〈君にそんなこといわれなくても知ってる。私はビートルズをきいて育ってきた世代なのだ〉と思った。
「私はポールのパートを歌えるよ。『恋に落ちたら』でも『イン・マイ・ライフ』でもハモれるよ」といった。
彼をギャフンといわせたくて見栄をはった。ポールのパートだけを、音痴の私が音程をはずさずに歌えるわけがない。レコードで「ヘルプ!」をききながら、ポールになったつもりでコーラスを真似して、気持ち良くなっている程度なのだから。
続きは正論12月号でお読みください。
■ 上原隆氏 昭和24(1949)年、横浜市生まれ。立命館大学文学部卒。映画会社勤務のかたわら雑誌「思想の科学」で編集、執筆活動を始める。退社後、ノンフィクションを次々に発表。著書に『こんな日もあるさ 23のコラム・ノンフィクション』など。本誌に「くよくよするなよ」を連載中。