雑誌正論掲載論文

世はこともなし? 第99回 アイク生原もあきれた?

2013年08月25日 03:00

コラムニスト・元産経新聞論説委員 石井英夫 月刊正論9月号

 プロ野球の・統一球問題・では、最高責任者であるコミッショナーが「知らなかった」「不祥事とは思っていない」などと発言、われわれをあきれ返らせた。

 このコミッショナーは東大卒エリートの、典型的な外務官僚上がり。駐米大使時代から「どうすればコミッショナーになれますか」とあちこちに聞き回っていたとやら(「週刊文春」6月27日号)。臭気ふんぷんの小役人根性には鼻をつまむほかない。

 そんな御仁と比べる気はないが、日本にはこんなサムライ野球人もいた。口直しの清涼剤に紹介してみたい。サムライといっても九州生まれの野武士のような男だが…。

 20代で単身渡米し、下積みの裏方仕事からはい上がって日米野球の懸け橋となったアイク生原(本名・生原昭宏)である。米大リーグ・ドジャースの会長補佐となったが、平成4(1992)年、55歳の若さでがん死して21年。いま郷里の福岡県香春町で顕彰の事業がすすめられているそうだ。

 東京・後楽園の東京ドームの一角に「野球殿堂博物館」というのがあり、その殿堂ホールには殿堂入りした人たちのブロンズ製浮き彫り胸像額が掲げられてある。

 これまで野球殿堂入りしたのは180人。大部分は名選手たちの「プレーヤー表彰」だが、そのほかに「特別表彰」というのもある。パ・リーグ初代会長の中沢不二雄、野球好きの俳人・正岡子規、終戦直後に来日したサンフランシスコ・シールズ監督のフランク・オドールらだが、平成14年、アイク生原はその特別表彰の一人に加えられた。

「日米野球の懸け橋として、プロ・アマを問わず野球交流に尽力、その功績は計り知れない」が表彰理由だ。彼がいかに重要な役割を果たしてきたかを教えている。

 東京オリンピック(昭和39年)の直前、1年間ほど私もスポーツ記者をしたが、生前のアイク生原氏とは会ったことがなかった。ところが世に奇縁がある。アイクの弟の生原伸久さん(73)は産経のOBで、現役時代に私とはサンスポや産経社会部で一緒に仕事をした仲だった。

 その生原伸久さんが折から兄アイク生原の評伝を郷土史誌『かわら』に連載をはじめ、それが郷里で学校教材として活用されることになった。

 ではアイク生原は、どんな人生を歩んだか。

続きは正論9月号でお読みください

■ コラムニスト・元産經新聞論説委員 石井英夫 昭和8年(1933)神奈川県生まれ。30年早稲田大学政経学部卒、産経新聞社入社。44年から「産経抄」を担当、平成16年12月まで書き続ける。日本記者クラブ賞、菊池寛賞受賞。主著に『コラムばか一代』『日本人の忘れもの』(産経新聞社)、『産経抄それから三年』(文藝春秋)など。