雑誌正論掲載論文

子供には体罰を受ける権利がある

2013年03月05日 03:00

マスコミや教育関係者は体罰の定義もできず、体罰を悪と決めつけている。もし教育から体罰を除外すれば、それは教育の名に値しないものになるだろう
戸塚ヨットスクール校長 戸塚 宏 月刊正論4月号

 大阪市立桜宮高校で、バスケットボール部のキャプテンが顧問教師の体罰を苦にして自殺するという事件が起きた。これをきっかけに「体罰を撲滅すべし」という強風が日本中で吹き荒れている。柔道界では、全日本女子の監督が、選手15人の告発を受けて辞任に追い込まれるという騒動も起きた。従来から一貫して「体罰は善」と主張してきた戸塚ヨットスクール校長の戸塚宏氏に改めて体罰について聞いた。

体罰とは進歩を目的とした有形力の行使

 ─―桜宮高校の事件について、率直な感想からお聞かせいただけますか。

 戸塚 マスコミは初めから「体罰は悪である」というスタンスを取っていますが、一般の考えとは乖離していると思います。あるテレビ番組が街頭アンケートを取っていましたが、6割は「体罰は必要」という意見でした。国民は経験的にわかっているんですよ。そもそもマスコミは、体罰を定義することもできない。体罰は人類発祥以来営々と行われてきたものです。その意味も考えないで、体罰は悪だと言い募っている。

 ─―戸塚さんは体罰をどう定義しているのですか。

 戸塚 体罰とは「進歩を目的とした有形力の行使」です。子供を進歩させようとしてやるものです。教育とは人間を進歩させるための行為です。ところが、現在の教育にはこのことが置き去りにされています。

 なぜ置き去りにされてしまったか。それは人間は神が創造したのだから、生まれたときにすでに完成品であるというキリスト教思想の影響です。それが根底にありますから、「進歩させる」なんてことは、神の意思に反する行為になってしまう。ですから、欧米では表向きは体罰不要という顔をして、裏でしっかり体罰をやってきた。

 ─―体罰をしなければ、子供は進歩しないということが経験的にわかっていた。

 戸塚 そうです。欧米の教師はつい最近までムチを持って教育をしてきた。欧米に限らず東洋でも同じです。「教」という漢字は「聖なる家、つまり教室に子供を入れて木の枝でムチ打つ」ということを表す象形文字なんですよ。ところが、ここ半世紀、権利思想を持ちだして、「子供の権利の侵害になるから体罰をしてはいけない」という声が大きくなった。しかし、これは逆です。体罰をしなければ子供は進歩しません。つまり、子供が進歩する権利を奪っているんですよ。私に言わせれば、子供には体罰を受ける権利があるんです。体罰否定派が金科玉条のように持ち出すのは「学校教育法十一条」でしょう。

《校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない》

 懲戒はしてもかまわないといいながら、体罰はいけないという。ここには、体罰は教育方法の一つであるという認識がありますが、それを理由もなく封じている。非常に矛盾に満ちた条文です。つまり、体罰は教育であるが、体罰をしてはいけないと書いてあるんですよ。これは教育を受ける権利の侵害です。子供には体罰を受ける権利があるんです。

 体罰否定派の人々に問いたいのは、体罰をどう定義しているのか、さらに体罰が悪というのであれば、善悪をどう判断しているのかということです。体罰の定義もできず、善悪の判断もできない連中が、体罰を悪だと決めつけているのがわが国の現状です。彼らが言っているのは丹波哲郎の『大霊界』と同じです。丹波哲郎は「霊界はある。なぜならばあるからだ」と言っています(笑)。彼らは「体罰は悪である。なぜなら悪いからだ」と言っているにすぎません。

 ─―では、戸塚さんは「善悪」をどのように判断するのですか。

 戸塚 これは「性善説」から考えていけばいいんです。『中庸』にこうあります。「天の命ずる之を性と謂う」。「天の命ずる」わけですから、自分でつくったものではないという意味ですよね。要するに「本能が善なり」なんです。ヨーロッパの場合は逆で「理性が善なり」です。彼らにとっては「本能が悪なり」。つまり本来の意味で言えば「性悪説」です。ところが、彼らは人間には生まれながらにして理性が備わっているから「性善説」だと主張する。これは欺瞞です。「理性が善なり」とはすなわち「性悪説」です。

 ─―『エミール』を書いたルソーあたりにその淵源はあるのでしょうか。

 戸塚 いや、もっと昔からヨーロッパの哲学は、「理性は善なり」から始まります。真理は「本能は善なり」なのに、彼らは長い歴史の中でねじ曲げていった。彼らは理性とは何かを知りません。それなのに「理性は善なり」としてギリシャ哲学はスタートする。のちにキリスト教が、「理性は神が与えたものであるから善である」というお墨付きを与えてしまった。

 ─―なるほど。東西とも人間は生まれながらにして善だと考えているわけですが、東洋の場合は、本能を十分に伸ばしてやれば、善悪の判断ができるようになると考える。西欧の場合は、理性を伸ばし本能をコントロールすることで善悪の判断ができるようになると考える。

 戸塚 どちらが真理か、明らかでしょう。

 ─―ええ。本能重視は伝統主義であり、理性重視は設計主義とも言えますね。現代は理性万能主義のため、人間はどんどんおかしくなり始めているように思います。

 戸塚 強い本能の上にこそ、理性が打ち立てられるということがわかっていないからです。人間の本能を強くするには、小学校の低学年までの教育が特に重要になってきます。『孟子』には「浩然の気を養う」と書いてあります。幼い頃に浩然の気(生命力や活力の源となる気)を養ったら、本能が確立し、善悪が判断できるようになるというのです。東洋の教育論はこの時点で完成していました。ところが、敗戦後、マッカーサーが精神のクーデターを実行してしまった。「大和魂はだめだ。欧米流の精神論に変えろ」と。そうして、わが国は「性善説」から「性悪説」に転換させられてしまった。サンフランシスコ講和条約の後で元に戻すべきでしたが、偏差値秀才の役人には欧米流が正しいに決まっているという舶来信仰があった。情けないのは教育学者です。欧米流の精神論に基づいて教育論をつくりあげ、それに基づいた教育が今日まで続いている。欧米流の精神論は明らかに間違いなんだから、それを基にした教育論で教育が上手くできるはずがないんですよ。

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