雑誌正論掲載論文
世はこともなし? 第93回 米長さんと氷室の里びと 石井英夫
2013年02月25日 03:00
愛別離苦は人の世の常だが、昨年は敬愛していた幾人もの人たちを、あの世に見送らなければならなかった。なかでもつらかったのは、急逝した米長邦雄永世棋聖との別れだった。
米長さんとの思い出は、別のところでも書いたので、ここでは彼の生まれ故郷である甲斐・氷室の神社とその里びとについて記し、惜別の悼詞としたい。氷室は米長さんにとって、産土の神であり、帰るべき源郷であるだろうから。
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米長さんのふるさと山梨県増穂町(いま富士川町)には二度訪れたことがある。
といっても一度目は、友人たちと赤石鉱泉宿に泊まるのが主な目的だったから、米長さんに知らせることはしなかった。昭和63(1988)年の11月で、JR身延線の鰍沢口駅で降りて、駅前からタクシーで鉱泉宿まで行った。で、その夜、湯の中でふと耳にしたのが、この町の山の上に氷室神社というのがあり、里びとはその産土の神に和歌を奉納するならわしがある、ということだった。
翌日、宿の主人にマイクロバスを出してもらい、案内をお願いした。
氷室神社は標高千メートル近い山の上にあり、コケむした自然石の石段が五百余り。うっそうとした杉の大木やクロベ(黒檜)の森の中に、朱塗りの楼門や神殿が斜面に重なるようにそびえているのだった。そのなかに随神門という名の楼門があり、そこに手づくりの扁額に和歌が十幾つか掲げられていた。
思わず手帳を出して書き写した。こんな歌である。
「訪ね来て祈りて去りし人のあり 随神門に秋の風吹く」(深沢守治)
案内してくれた宿の主人は「詠み人はこの門を塗った塗装屋です」と教えた。
「老杉は衛士にてあらむうぶすなの 神鎮まりて里はやすけし」(秋山達夫)
この人は町の雑貨屋さんだという。
「老杉のつづく石段のぼりきて 古今の人のおもいさまざま」(保坂卓)
「あ、それは私です」と四十代の宿のあるじは小さい声でいった。
これらの献歌には、増穂平林地区の里びとの産土の神への感謝と土地への愛着が響いている。なんと美しい風習であり、またなんとすばらしい調べの詠進ではないか。
現代は神に対する畏れを忘れ、西欧の宗教に比べて日本の神道を一段低く見るような風潮がはびこっている。しかしここの里びとの貴い精神性と文化度の高さはどうだろう。峰々の頂きに輝く新雪のようだ。そう思わないではいられなかった。
増穂から帰って、このことを米長さんに伝えた。「ふるさと増穂の人びとの文化水準の高さに驚きました」と。すると米長さんは鼻をうごめかして「ええ、あの程度の歌はだれでも詠みますな。ぼくは次のような歌を奉納しました」といってスラスラと朗誦した。
「ディオレラのかすみつつみし妹なれば 右のほくろに又むせびけむ」
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■コラムニスト・元産經新聞論説委員 石井英夫 昭和8年(1933)神奈川県生まれ。30年早稲田大学政経学部卒、産経新聞社入社。44年から「産経抄」を担当、平成16年12月まで書き続ける。日本記者クラブ賞、菊池寛賞受賞。主著に『コラムばか一代』『日本人の忘れもの』(産経新聞社)、『産経抄それから三年』(文藝春秋)など。