雑誌正論掲載論文
「二重社会」が起こした仏移民の「反乱」
2023年08月01日 03:00
産経新聞パリ支局長 三井美奈/ 月刊「正論」9月号
フランスではしょっちゅうデモが暴走する。車が放火され、商店のガラスが叩き割られるのを、筆者もパリ特派員生活で何度も見てきた。ところが、今回は様相が違った。六月末から約一週間、全国で暴動が吹き荒れ、警察署や学校、市役所といった、フランスの「体制の象徴」が攻撃対象になった。
毎夜、暴れまくったのは、移民社会に育った二世、三世の若者たちだ。貧困や差別に対する不満、というのでは表現しきれない。フランスという国家に対する憎悪が、一気に噴出したようだった。放火された車は、一万二千台。二千五百の建物が放火、襲撃で損壊し、商店への略奪も横行した。市長や議員も襲われ、この国の民主主義をも揺るがした。マクロン大統領はもとより、歴代政権の移民同化政策の「失敗」は今や覆い隠しようがなくなった。
パリ郊外の移民街
暴動のきっかけとなったのは、パリ北西のナンテールという都市で起きた事件だった。検問中の警官が、アルジェリア系移民二世の十七歳の少年を射殺した。バス路線を違法走行していた車を止め、窓越しに銃を構えてエンジンを切れと命じたが、車が振り切って急発進したので発砲した。
ナンテールは、フランス現代史ではお馴染みの地名である。一九六八年、ここにあるパリ大学ナンテール校が、「五月革命」と呼ばれる若者の反乱の火ぶたを切った。マクロン大統領やサルコジ元大統領も、このキャンパスに通った。第二次大戦後、産業復興を支える労働者の街として開発が進み、いまは北アフリカ系移民が多く住んでいる。少年もその一人だった。
事件後、警官は殺人容疑で逮捕されたが、移民社会の若者に警察への反発が広がり、連夜の暴動へと発展した。筆者がナンテール入りしたのは、そのさなかの朝だった。ナンテールはパリの観光名所、凱旋門から電車で十分の距離にある。
駅から歩くと、夜の騒ぎが嘘のように静まり返り、黒焦げの公民館が無残な姿をさらしていた。スカーフをかぶったイスラム女性が、息を殺してみている。突然、中から黒いジャージ姿の少年たちが十人ほど飛び出してきた。みんな褐色の肌だった。先頭にいた十五歳ぐらいの少年が「見ろよ、やったぜ」と叫び、軽々と柵を乗り越えて走り去る。向こう側の壁に、「警察は殺し屋」「人種差別主義者」と赤ペンキで壁に走り書きしてあるのが見えた。
「移民地区」と聞くと、バラックが立ち並ぶスラム街を思い浮かべるかもしれない。だが、ナンテールは高層の公団住宅やショッピングセンターが林立し、市内の清掃も行き届いている。筒形住宅やモザイクのオブジェなど、一九七〇年代に流行った未来風建築が今も残り、労働者の街づくりを目指した当時の息吹が伝わってくる。ナンテールの東には、フランス最大の移民街サンドニがある。ここも高層団地が立ち並び、川の向こうに二〇二四年パリ五輪でメインスタジアムとなる競技場がそびえる。
一見モダンな団地群は、みんな低所得者向けの住居である。かつては工場勤めの白人労働者の家族でにぎわった。旧植民地アルジェリアや西アフリカから労働者としてやって来た人たちも、移り住んだ。工場が消えると、白人労働者も去った。そこに新たな移民たちが住み、やがて移民の街になった。こうした公団住宅地は、パリを囲むように広がっており、軽い侮蔑を込めて「バンリュー(郊外)」と呼ばれる。今は二世、三世の時代で、ナンテールは住民の四割を二十九歳以下の若者が占める。この世代が、暴動の中核になった。
政府の発表によると、暴動には八千~一万二千人が加わった。身柄拘束されたのは約三千五百人で、平均年齢は十七歳だった。中には十一歳の放火容疑者もいた。彼らはSNS(交流サイト)でつながった。ゲリラのように夜の街を走り、打ち上げ花火を迫撃砲代わりにして、警察署や役所に火花を浴びせた。四万人以上の警官が毎夜出動して、ようやく押さえ込んだ。フランス経団連の試算では、民間の被害額は十億ユーロ(約千六百億円)にのぼった。
フランスで移民二世たちの「反乱」は、今回が初めてではない。二〇〇五年には、暴動が約三週間続いた。この時も発火点はパリ郊外だった。今回の暴動は一週間で収束したが、警察や役所の被害は前回を上回った。略奪もひどかった。激しさが増したことの証左だ。
人種問題に踏み込まず
マクロン政権は、暴動を移民問題と結びつけることを拒絶している。
暴動がおさまった後、ジェラルド・ダルマナン内相は国会で、「逮捕者の九〇%はフランス人だ。マテオとかケビンという(白人キリスト教徒の)名前もあった」として、「二世、三世の反乱」と表現されるのを阻止しようとした。ダルマナン自身、アルジェリア系の家庭に生まれたから、「私はフランス人だ。移民扱いするな」という思いもあるだろう。
フランスの国籍法は日本と異なり、出生地主義が強く残る。両親が外国から来た移民でも、フランスに生まれ育てば、国籍が取得できる。だから、フランス生まれの移民二世は、立派なフランス人だ。親の出身国との二重国籍も認められている。
マリーヌ・ルペンの率いる極右「国民連合」は、「暴動は移民政策の失敗のせい」と政府を攻撃した。するとマクロン政権は、暴動は「親のせいだ」という論法を打ち出した。暴動は少年犯罪の問題で、親の監督責任を厳しく問う、と息巻いた。
政府が移民論議を避けるのには、理由がある。人種問題に踏み込みたくないからだ。
フランスは憲法で「不可分の共和国」と自己規定し、すべての国民は出自や人種、宗教の別なく平等だと明記している。「不可分」の国だから、人種、宗教別など、フランス人を分類するような人口調査はタブーとされる。一九七八年の「情報と自由法」は、「人種や民族ルーツ、政治意見や宗教信仰を明らかにするようなデータ」を扱うことを禁じた。米国が国勢調査で人種や宗教を尋ねるのとは、ずいぶん違うのだ。
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