産経新聞政治部編集委員兼論説委員 阿比留瑠比/ 月刊「正論」8月号
安倍晋三元首相は平成十八年九月二十六日に第一次政権を発足させるが、それに先立つ同年八月一日のことである。私は当時、社命で産経新聞の「イザ!」というサイトで記者ブログを書いていて、おそらく自民党総裁選に勝利して誕生するであろう安倍内閣の閣僚人事や党三役人事を予想してみたことがある。
週刊誌「サンデー毎日」と「読売ウイークリー」が同様の予想をしていたので目を通したところ、双方とも安倍氏の盟友である中川昭一元農水相の名前を全く挙げていなかった。それはないよ、中川氏は党政調会長だろうとこう書いたのである。
「安倍氏と中川氏は思想的に同志であり、絶対に起用されると思います」
果たして九月二十五日に党執行部人事が発表されると、やはり政調会長は中川氏だった。ささやかな自慢だが、逆に言えばそれだけまだ安倍氏の人脈も考え方も広く知られていなかったといえる。
この日の朝日新聞朝刊は「政調会長に柳沢(伯夫)氏浮上」と報じていて、共同通信も同日未明配信の記事で「政調会長には柳沢氏の名前も挙がっている」と書いていた。中川氏の閣僚起用をほのめかす社はあったが、発表当日になっても、どの社も中川政調会長を予想していなかった。
拉致問題や慰安婦問題その他での安倍、中川両氏の連携関係をどう見ていたのかと不思議に思うぐらいだった。繰り返すが、安倍氏が何を重視し、何をやりたいのかが分かっていなかったのだろう。
ともあれこの日夜には、安倍氏に一、二週間ぶりに電話をした。一国の首相というこれ以上はない多忙な重職に就くのだから、これまでみたいに気軽に電話をするわけにはいかない。そう考え、少し遠慮していたのだが、さすがに明日の組閣情報ぐらい取材しないと記者失格だと思い直し、携帯を手に取った。
「あ、阿比留さん。中川さんは阿比留さんの薦めもあったから、政調会長にしたからね」
いつもの明るい声が、すぐに返ってきた。私の薦め云々は言葉通りには受け取れないが、国のトップになろうとそれまでと全く変わらないフランクさだった。
後の民主党政権下では、権力を握ったとたんにそれまで敬語で接していた年長の記者にため口を利いたり、威張り散らしたりする議員が見られた。だが、そんな様子は安倍氏には全くなく、「ああ、これが安倍さんだ」と感じた。
そして、閣僚人事についてはあっさりと中身を教えてくれた。もっとも、これについては、自民党記者クラブキャップに報告したものの、その少し前に同期の石橋文登記者から同様の連絡があったとのことで、あまり会社の役には立たなかったが―。
政治の世界は醜い世界
もうじき安倍氏が非業の死を遂げて一年になる。記憶は放っておくと風化していくものだが、安倍氏を取材し続けた二十四年弱にあった出来事、特に安倍氏と会話した場面は今も生々しくよみがえってくる。
第一次安倍政権は結局、社会保険庁の年金記録未統合と紛失、いわゆる「消えた年金」問題で、安倍政権の失策ではないのに強い批判を受けて平成十九年七月の参院選で大敗し、安倍氏が持病を悪化させてわずか一年で退陣した。
安倍氏が突然辞任を表明した九月十二日の深夜、首相官邸の半地下のような場所にある窓が開かない記者クラブにいるところに、安倍氏から電話がかかってきた。辞任記者会見はとうに終わり、それを報じる原稿の送稿とゲラのチェックも済んで呆然としていた時のことだった。
「やれるところまで、できるだけ頑張ろうと思っていたのだけど、それも無理になった。私は求心力を失ってしまった。今まで、応援してくれてありがとう」
声には張りがなく、記者会見での憔悴した様子を思い浮かべた。同時に、こんな時にもわざわざ一記者にまで礼を尽くす安倍氏の律義さが胸に迫った。「どうしてあんなに若く溌剌として、やる気に満ちていた人が、たった一年でここまで追い詰められなくてはならないのか」と不条理を感じた。
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あびる・るい 産経新聞論説委員・政治部編集委員。昭和四十一年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、産経新聞入社。政治部で首相官邸キャップなど歴任。