雑誌正論掲載論文

毒殺国家ロシアに迎合するな

2020年11月15日 03:00

産経新聞外信部次長兼論説委員 遠藤良介「正論」12月号

 ロシアのプーチン政権がまたしても毒物事件の渦中にある。露反体制派の指導者、ナワリヌイ氏が八月に一時重体となり、旧ソ連開発の神経剤「ノビチョク」系の毒物が使われたことが搬送先のドイツで判明したのだ。ノビチョクという化学兵器級の毒物が使われたこの事件は、ロシアという国の残忍さと異様さを改めて白日のもとにさらした。

 ナワリヌイ氏は八月二十日、西シベリアのトムスクからモスクワに向かっていた国内線の旅客機内で倒れた。同伴していたナワリヌイ氏の周辺者によると、まず発汗して朦朧となる症状を訴え、トイレに立った後で呻き声を上げながら意識不明となった。旅客機は西シベリア・オムスクの空港に緊急着陸し、ナワリヌイ氏は現地の病院に救急搬送された。

 オムスクの空港には「爆発物を仕掛けた」との虚偽の脅迫電話があり、何者かが緊急着陸を阻もうとしたとみられている。オムスクの病院では情報機関員と思しき男らが院長室に出入りしていたという。

 ナワリヌイ氏の親族らは毒物使用を疑い、ドイツの病院への移送を求めた。ロシアの病院では真相が明らかにされず、十分な救命措置が施されないと考えたためだ。オムスクの病院は容体が安定していないとして拒否していたが、ドイツから到着した医師らが「移送は可能」と判断し、二十二日に医療輸送機でドイツの名門シャリテ病院に運ばれた。

 オムスクの病院は「検査で毒物は検出されなかった」とし、「低血糖による代謝障害」との診断を発表した。しかし、シャリテ病院では二十四日、神経に作用するコリンエステラーゼ阻害剤系の薬物が使われた可能性を指摘。メルケル独首相は九月二日、ノビチョク系の毒物が使われたとする軍研究所の分析結果を明らかにした。

 化学兵器禁止機関(OPCW、本部オランダ・ハーグ)も十月六日、ドイツから送られたナワリヌイ氏の血液と尿からノビチョク系物質を検出したと公表した。ドイツによる分析の正しさが裏付けられた形で、アリアスOPCW事務局長は「重大な懸念」を示した。

だが、当面はリハビリが必要で、いつ政治活動に復帰できるかは分からない。長期的に後遺症が残ることも懸念されている。

化学兵器級の毒物

 ノビチョクはロシア語で「新人」「新入り」の意だ。旧ソ連で一九七〇~八〇年代に開発された。九〇年代に関係者が証言したことから存在が知られるようになった。威力はサリンやVXガスをはるかに超えるとされ、使われても検出されるのが難しい。

 開発に携わったロシア人研究者の証言によると、植物油のような液体と、塩のような粉末の形態があり、持ち運びが比較的容易だとも考えられている。

OPCWもノビチョクが使われたと断定し、ノビチョクを禁止化学兵器に指定した。

露外務省の報道官は事件を「反露キャンペーンだ」と一蹴した。しかし、一般人がノビチョクを市中で簡単に入手できるとは考えられず、何らかの形で政権や情報機関が関与していると考えるのが妥当だ。

他の制裁対象者はヤリン大統領府国内政策局長、メニャイロ・シベリア連邦管区大統領全権代表、クリボルチコ国防次官ら。EUへの渡航が禁止され、EU内の資産が凍結される。

 ナワリヌイ氏は、今日の露反体制派の中で圧倒的な存在感を見せている。プーチン体制を何らかの形で打倒する潜在的な破壊力を持っているという意味で、唯一無二の存在だと言ってもよい。過去に十三回も投獄され、有罪判決を受けるなど、政権側はすさまじい嫌がらせを加えてきた。

 ナワリヌイ氏は弁護士出身で、一一年末にモスクワで大規模な反政権デモがあったころから反体制派政治家として頭角を現した。自らが主宰する「汚職との戦い基金」を足場に、政権高官や、中央・地方の政権と癒着した実業家らの腐敗をインターネット上で暴いてきたことでも知られている。

ドローンを使ってメドベージェフ氏所有とみられる御殿を空撮するなどした力作で、ユーチューブに公開されて一カ月も経たないうちに再生回数千二百万回を易々と超えた。

デモの主体が若年層だったことに当時のクレムリンは衝撃を受けた。

 最近のナワリヌイ氏は「スマート投票(賢い投票)」運動というものに力を入れていた。各種の選挙で最も有力と考えられる非与党候補者を情勢分析で割り出し、投票を集中させる運動だ。ナワリヌイ派はなかなか立候補を認められないための苦肉の策だが、政権与党には一定の打撃となっている。

 続きは「正論」12月号でお読みください。