雑誌正論掲載論文

李登輝さんから日本への叱咤激励

2020年11月05日 03:00

産経新聞論説委員兼特別記者  河崎真澄「正論」12月号

 三十年以上ジャーナリズムの世界に身を置いてきたが、これまでの取材経験の中で台湾の元総統、李登輝さんほど「父性」を感じさせるリーダーに出会った記憶はない。

 信念と哲学に裏打ちされた理想を胸に、いかなる苦難も長期間にわたって忍び、耐え抜く。厳しい現実との矛盾をいかに克服すべきか苦悶し、解決策を見いだしては、強靭な行動力で実践躬行する。そうして自らの背中を台湾や日本の若者に見せるのだ。

 それでいて笑顔がとびきり優しい。握手する手が温かく、柔らかい。いま思い起こせばまさに理想と考える父親の姿であった。知らず、知らず、その「父性」に強く惹かれたことが、李登輝さんの取材を深めたい、と考えたきっかけであっただろう。

 七月三十日午後八時半過ぎ、速報で訃報をきき、実の父を失ったかのような感情に襲われて、そのことに改めて気づいた。リーダーシップの本質は「父性」にこそあった。この人のためなら命がけで事をなしたい、と思わせる「父性」が李登輝さんにはあった。

 私は二〇〇二年から〇六年まで、産経新聞台北支局長として総統退任後の李登輝さんを取材する機会に恵まれた。その後、〇八年から一八年までの上海支局長時代を含め、李登輝さんへの二十回を超える単独インタビューや訪日時の同行取材に加え、台湾や日中米など関係者の取材や数多くの資料をもとに、長期連載「李登輝秘録」を二〇一九年四月から二〇年二月まで産経新聞で掲載した。

 その書籍版『李登輝秘録』(産経新聞出版)初版の発行日は七月三十一日のことであった。書籍化された「李登輝秘録」見本版が、台北郊外の淡水にある「李登輝基金会」の事務所に届いたのが七月三十日の朝。秘書の早川友久さんから昼過ぎには入院先の台北市内の栄民総医院に届けると連絡を受けた。李登輝さんの容体が急変したのはその日の夕方だった。それまで打ち続けていた強心剤の投与がこの日、ご家族の希望で止められたという。わずか数時間ではあったが『李登輝秘録』は生前の李登輝さんの枕元近くに置かれていた。いま思えば奇跡であった。

 同じ日の午後七時二十四分に李登輝さんは九十七歳の生涯に幕を閉じた。書店に書籍が並んだのは翌日朝のことであった。

「台湾を頼んだぞ」

 キリスト教を深く信仰していた李登輝さんのご遺体は、亡くなった台北栄民総医院から八月十四日、霊柩車で総統府や立法院(国会)に近い台北市内の済南教会に運ばれて非公開の礼拝が行われた。曽文恵夫人とともに長年、通ったゆかりの教会だ。その後、車は総統府の建物を一周し、かつて李登輝さんが教授として教鞭をとった台湾大学に近い火葬場に向かい、そこで荼毘に付された。遺骨は曽文恵夫人が待つ故宮博物院に近い台北郊外の自宅、翠山荘に置かれた。

 台湾で「国葬」にあたる「告別追悼礼拝」は九月十九日に李登輝さんの生家にも近い新北市淡水のキリスト教系真理大学で行われた。戦前学んだ母校の淡水中学(現在は淡江中学)に隣接した大学だ。淡江中学にも会場が設けられ、一般市民も参列した。軍が二十一発の弔砲を鳴らし、「国葬」の形式で行われた。

 火葬から告別礼拝まで一カ月以上の時間があけられたのは、台湾で一般的に信じられている農暦(旧暦)で七月の「鬼月(今年は八月十九日から九月十六日)」を避ける意味があっただろう。先祖の霊を迎える月ながら、冠婚葬祭をなるべく避けるなど、古くからの習慣が大衆に根付いているからだ。

 李登輝さんご一家はキリスト教の信徒。それでも同時に、農暦に基づく台湾の人々の習慣や季節感をずっと大切にしてきた。

 告別追悼礼拝には、蔡英文総統や陳水扁元総統ら台湾の要人のほか、日本から森喜朗元首相、米国からクラック国務次官(国務省のナンバー3)らが参列した。李登輝さんと親交の深かった安倍晋三前首相とチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世の二人だけがビデオメッセージを寄せたのは、ご遺志にも沿っていたはずだ。

 一九八二年に三十一歳で亡くなった李登輝さんの長男、李憲文さんの一人娘、李坤儀さんが遺骨を抱えて真理大学を後にしたとき、李登輝さんの肉声録音が流れた。

 「いつか私がこの世を去ったとしても、心はずっと台湾を愛している。わたし、李登輝はこの生涯、最後の一瞬までずっと、みなさんにお願いし続けるよ。台湾(の未来)を頼んだぞ」

 この言葉を聞いたとき、涙がとめどもなく流れ、初めて声を出して泣いた。本当にこの時が来てしまったんだ。私たちは大切な父を失ってしまったと。

 李登輝さんの遺骨を埋葬する「奉安礼拝」が十月七日、台北郊外の「五指山軍人公墓」で行われた。キリスト教式の式典で、蔡英文総統らが参列していた。

 李登輝さんは二〇一七年十月、私とのインタビューで、「あまり人には言ったことがないが」と前置きした上で、「遺灰は新高山(現在の名称は玉山)にまいてほしい(と家族に頼んでいる)」と明かしたことがある。台湾の最高峰の山、戦前は日本の版図で最も高い山のてっぺんから、永遠に台湾と日本を見守りたいという李登輝さんの深い心の思いを感じた。

 その言葉どおりにはならなかったかもしれないが、軍に守られた墓地であれば、中国で古来、繰り返されてきた悪習である、死後でも政敵に恨みを抱いた「墓暴き」の目にあうこともない。そして台湾の土に埋葬されたことは、ご遺族にとっても李登輝さんを敬愛する台湾の大半の人々にとっても安心をもたらした。

 続きは「正論」12月号でお読みください。