雑誌正論掲載論文
「検察」とは何か 黒川検事長処分の真相
2020年07月15日 03:00
産経新聞政治部次長 水内茂幸 「正論」8月号
五月二十一日、皇居にほど近い法務省大臣室。森雅子法相と義家弘介法務副大臣、宮崎政久法務政務官の政務三役に加え、辻裕教事務次官や伊藤栄二官房長ら省幹部の約十人が長テーブルを囲んだ。賭けマージャンをした東京高検の黒川弘務前検事長に関する処分案を最終的に決める会議だった。
「訓告処分が適当と思います」
こう口火を切ったのは辻氏だった。
国家公務員の処分は六段階。重い順に「免職」「停職」「減給」「戒告」の四つは、国家公務員法に定める懲戒となり、検事長の懲戒処分は任命権を持つ内閣が行うことになる。一方、その下の「訓告」と「厳重注意」は、直属の上司が行う「監督上の措置」で、法律上の処分とはならない。検事長の黒川氏を処分するのは検察庁トップの検事総長で、処分後の給与や退職金の扱いなども、懲戒処分とは比較にならないほど軽い。
辻氏は訓告を選ぶ理由として、「過去、公務員が同じような事案を起こした場合は、厳重注意か不問だった」と説明した。今回の賭けマージャンは「点ピン」と呼ばれる低いレートで行われ、同席した産経新聞記者らとやりとりしたのは一万~二万円程度。刑法では「一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまる」場合、処罰されないとする規定がある。
しかし、森氏が「訓告」に異を唱えた。国家公務員を処分する際の定義となる人事院の「懲戒処分の指針」では、「賭博をした職員は、減給又は戒告とする」「常習として賭博をした職員は、停職とする」と定めているからだ。
森氏は「賭けたお金が一円でも賭博にあたる」と指摘し、人事院の指針に当てはめれば「戒告とすべきだ」と主張。人を起訴する権利を独占する検察官はとりわけ清廉性が求められ、さらにマージャンが行われた五月一日は、東京に緊急事態宣言が発令されていたことも念頭に置くべきだと訴えた。「政府が国民に徹底した外出の自粛を求めている最中に、公務員が六時間も賭けマージャンをしていたのは、重く受け止めなければならない」と強調した。
ところが、「訓告」に異論を唱えたのは森氏だけ。法務官僚は辻氏の意見に賛同した。中には、平成十一年に女性スキャンダルで辞職した則定衛元東京高検検事長が「厳重注意」に終わったことを引き合いに出し、「黒川氏も本来は則定氏と同じようなレベルなのに、処分は厳重注意からワンランク重くしている」と説明する者もいた。
会議では懲戒処分に賛同する意見はまったくなく、「九対一」となった森氏は、省としての方針を「訓告」でまとめることに同意した。しかし、心にわだかまりが残ったのか、「官邸にこの旨は報告するが、私の考えも伝えようと思う」といって席を立った。
直後に官邸を訪れたが、その際、巻紙にしたためた「進退伺」を持参した。「黒川氏を懲戒処分とする代わりに、自分が引責辞任すればいい」と考えていたようだ。
森氏が官邸で最初に面会した杉田和博官房副長官は、黒川氏の処分について「安倍晋三首相と話してほしい」と言葉を濁した。菅義偉官房長官も「首相と話してほしい」と語るのみだった。
森氏は首相執務室で首相と向き合った。法務省として「訓告」が適当と判断した旨を報告し、進退伺を出した上で「私は黒川氏を戒告処分とすべきではないかと考えた」という個人の考えを伝えた。「訓告」との結論に至った経緯をじっくり聞いた首相が口を開いた。
「森さん、それは法務省の考えに従った方がいいよ」
その上で「法相として検察の信頼回復に努めてほしい」と指示し、進退伺の受け取りを拒否した。執務室を出た森氏は、官邸のエントランスホールで報道陣に「黒川氏の処分は、法務省として訓告がふさわしいと判断し、首相も了解した」と説明した。不本意な決断であることが色濃くにじんでいた。
実はここに至る前に、法務官僚と官邸の間で、おそらく森氏も知らなかったであろうやりとりがあった。法務省幹部は大臣室での会議の前に、杉田氏のもとをひそかに訪れ、黒川氏の処分案について意見交換していたのだ。
政府高官と法務省関係者によれば、その際、同省幹部が杉田氏に示したのは「厳重注意」という案だった。しかし、官邸側は処分が軽いことに懸念を表明。法務省が再考した結果、出た答えが一段階強めた「訓告」処分だった。
翌五月二十二日、稲田伸夫検事総長は黒川氏に訓告処分を下し、同日の閣議で黒川氏の辞職は了承された。首相は同日の衆院厚生労働委員会で、黒川氏の処分について「検事総長が事情を考慮し、適正に行ったと承知している」と答弁した。これが、黒川氏の処分に関し、複数の当事者に取材を重ねた末にたどりついた全体像だ。
事実と異なる報道の連鎖
ところがこの後、一連の経緯について、不可解な報道が立て続けに流れた。先陣を切ったのは共同通信だ。五月二十四日に独自情報として、以下の記事を配信した。
続きは「正論」8月号をお読みください。