雑誌正論掲載論文
国難からの教訓 欧州が驚嘆した「日本のナゾ」
2020年07月05日 03:00
産経新聞パリ支局長 三井美奈 「正論」8月号
新型コロナウイルスの世界的流行では、感染症対策の国力格差が如実に出た。十万人以上の死者を出した欧州では、東アジアの民主主義国が「都市封鎖なしに、どうして感染を押さえ込めたのか」という点に、がぜん注目が集まった。パリにいて感じるのは、日本を見る目がガラリと変わったことである。
外出禁止令さなかの五月、買い出しに行って顔見知りと会うと「日本はすごいね。子供のころから衛生教育が徹底している」と言われた。「日本はコロナとどう戦っているか」という、フランスの民放テレビ番組を見たのだという。漫画やアニメ、和食ブームで「日本文化はすごい」発言は何度も聞いたが、自分たちの手本として敬意を示されるのは新しい現象だ。
この番組は四月、日本の緊急事態宣言にあわせて放送された東京ルポだった。フランス人記者がJRの車内に乗り込み、「日本では外出が禁止されず、政府は自粛を要請するだけ。感染による死者数は、フランスの百分の一にすぎません。だが、駅や電車はピッカピカで、乗客みんながマスクをし、互いに距離をとるなど気配りしているのです」とリポートする。
場面は一般家庭に移り、学校から帰った子供たちが玄関で土足をそろえ、洗面所で手を洗う様子が出てくる。若い母親は「天井を向いてガラガラするのよ」と子供にうがいを教え、「大人になってもうがいをしています。いつの間にか習慣になりました」と笑う。巣鴨のとげぬき地蔵では、マスク姿のおばあちゃんが手水を使って参拝に向かい、「どうぞお気をつけて」と記者の健康にも気配りする、という具合だ。居酒屋では、客が着席すると同時に熱いおしぼりが出される、という紹介もあった。「清潔大国ニッポン」に対する驚きを伝える、というテーマでまとめられている。
こんなことで驚くのか、と読者は思うだろう。だが、欧州の日常生活は日本と随分違う。ありていに言えば、大半の日本人が「これで大丈夫か」と戸惑う水準にある。
一般家庭では、室内も土足が当たり前。家電品の配送員や水道工事の作業員も、みんな運動靴でズカズカ入ってくる。在外経験が長い日本人でも、これは頭痛のタネらしく、たいていの家庭は客に「ウチは内履きなので」と断って、玄関で履き替えを頼んでいる。フランス人の大家でも「靴を脱ぐので、アパートが汚れない」と、日本人の店子を歓迎するほどだ。
日本のように、小中学校の児童、生徒が自分で使った教室やトイレを掃除する習慣もない。親も子供も「掃除は、清掃作業員の仕事」と割り切っている。「子供に掃除をさせるのは、不潔で危険」「子供に労働を強いるべきではない」という声すらある。
そのせいか、「自分で地域をきれいにする」という意識がどうも希薄だ。パリの公道は、ゴミや吸い殻だらけ。「掃除は清掃員の仕事だから」というわけだ。カフェに入れば、テーブルにぽんとパンを置かれ、大半の人が手も洗わずに、そのまま手づかみで食べる。知り合いがやってくれば、ほほにキスしてあいさつする。
地下鉄は歴史が古いせいもあって、ろくに空調もない車両が多く、構内は小便臭がプンプン。気温上昇と共に体臭が加わり、地元住民でも「夏は地下鉄に乗らない」という人が結構いる。十九世紀にできたロンドンの地下鉄も衛生レベルはひどいらしい。昨年の新聞調査によると、車内の大気汚染は、世界保健機関(WHO)の基準を八倍上回る場所があった。
悩ましい報道
日欧の習慣や衛生の違いを長々と書いたのは、ここを理解しないと「日本の成功の秘密」が伝わらないからだ。日本を含め、世界のメディアや感染症学者は、政府の対策モデルばかりに注目し、その成否で論じる傾向が強い。
欧州で最初にもてはやされたのは、韓国だ。「大量検査」で感染者の早期発見を重視するやり方は、ドイツのモデルとなり、フランスや英国も追随した。香港や台湾については、二〇〇三年の重症急性呼吸器症候群(SARS)流行を教訓に、中国本土からの水際対策を徹底したことが報じられた。
一方、日本は、こうした分かりやすい「成功の秘訣」がない。外出や飲食店営業に対する政府の「自粛要請」は、罰則を導入して都市封鎖を敷いた欧米からみると、なんとも生ぬるかった。そもそも、日本人の学者たちが、「なぜ日本はうまくいったのか」を明確に説明できずにいる。
今年二月、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」の集団感染が発覚した際、東京駐在の外国人記者たちは横浜港に集まって、「日本の失態」を大々的に報じた。WHOのテドロス事務局長が三月、検査徹底を各国に呼びかけると、欧州各国は競うように大量検査の方針を打ち出したが、日本はなかなか検査数が増えず、「大流行は確実」と伝えた。その日本が、意外なことに感染封じ込めに成果を上げたので、どう報じてよいのか困ったらしい。
そこで、報道は「日本のナゾ」を探るというテーマで、文化的背景に原因を探る方向に進んだ。安倍政権の対応のまずさばかり論じてきた欧米メディアが、日本人の衛生意識、公共心を培った歴史、といったところまで掘り下げるようになった。
続きは「正論」8月号をお読みください。