雑誌正論掲載論文
ユダヤ難民と北海道を救った陸軍中将 樋口季一郎の遺訓と改憲論
2020年06月25日 21:30
ノンフィクション作家 早坂隆「正論」7月号
未発表原稿の公開
大東亜戦争下における「日本人によるユダヤ難民救出」と言えば、杉原千畝の名前が思い浮かぶであろう。リトアニア駐在の外交官だった杉原は、ナチスの迫害から逃れてきた約六千人のユダヤ難民に対して特別ビザを発給。その功績は「命のビザ」として広く語り継がれている。
しかし、実は救出劇はもう一つ存在した。その指導的役割を担ったのが、樋口季一郎という陸軍軍人である。
さらに樋口は「占守島の戦い」でも昭和史に名を残す。昭和二十年八月十七日、ソ連軍は終戦後であるにもかかわらず、千島列島最北端に位置する占守島への侵攻を開始したが、第五方面軍司令官であった樋口は「自衛戦争」として徹底抗戦を命令。ソ連軍の南下を見事に阻止した。スターリン率いるソ連軍の目的は北海道の北半分の占領であったが、その野望をくじいたことになる。
そんな多大な功績を残した樋口であったが、戦後、彼の存在は昭和史の中に埋もれた。それは外交官であった杉原に対し、樋口が陸軍軍人であったことと深く関係するであろう。戦後の日本は、それが史実であったとしても、軍人の功績を公に語れるような社会ではなかった。十年前に私が樋口の評伝を刊行した時、その知名度はゼロに等しかった。
しかし昨今、樋口に関心を寄せる人が着実に増えつつある。昭和史を冷静に客観視できる土壌が定着してきた証左であろう。
そんな中でこのたび『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓』(勉誠出版。以下、『遺訓集』)という一冊の大書が刊行された。編著者は樋口のお孫さんにあたる樋口隆一氏である。隆一氏は音楽家、指揮者としても著名で、明治学院大学の名誉教授でもある。
この『遺訓集』には、戦後に樋口が書き残した未発表の原稿が数多く収録されている。その中には、昭和史の実像を理解する上で極めて貴重な記述が少なくない。本稿ではそれら新事実を踏まえながら、樋口の生涯について改めて綴っていきたい。
ロシア問題のエキスパート
樋口は明治二十一年八月二十日、淡路島の阿万村で生まれた。島内の三原尋常高等小学校から兵庫県下篠山町の鳳鳴義塾(現・兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)へと進んだ樋口は、大阪陸軍地方幼年学校に入学。その後、東京の中央幼年学校を経て陸軍士官学校に進学した。同期生には石原莞爾がおり、二人は終生にわたる友となった。樋口は成績優秀であったが、特にドイツ語やロシア語といった語学が得意だった。その後、陸軍大学校へと進み、ロシア問題を扱う専門家として研鑽を積んだ。
卒業後はウラジオストク特務機関員を拝命。特務機関とは諜報や防諜を主な任務とする特別組織である。「情報将校」としてインテリジェンスの世界で奔走した樋口はその後、ハバロフスク特務機関長となった。
大正十四年からは公使館付武官としてポーランドに駐在。豊富な語学力を活かして、ヨーロッパの最新情報を収集、分析した。人間味豊かな性格であった樋口は、現地で幅広い人脈を築いた。オペラなどの西洋音楽にも深い関心を示したが、その孫である隆一氏が後に音楽家となったことは偶然ではないであろう。
帰国後は東京警備参謀や歩兵第四十一連隊長などを歴任。昭和十二年八月には、満洲のハルビン特務機関長に就任した。ハルビン特務機関は満洲各地の特務機関を統括する組織であったが、樋口はその責任者としてソ連に対する情報戦を指導することになった。日本陸軍にとっての最大の仮想敵国は常にソ連軍であり、樋口には大きな期待が寄せられた。そんな中、『遺訓集』によれば以下のようなことがあったという。
〈ある時、国境にソ連機が墜落したが、何千通かの個人の信書が入手された。それの検索で、配兵その他、ロシアの内部事情が相当明瞭となった〉
十二月には、ハルビンで第一回となる極東ユダヤ人大会が開催されたが、樋口はこれに出席。演説を求められた樋口は、ドイツで強まりつつある「ユダヤ人迫害」の趨勢を強く批判した。ポーランドでの駐在経験を持つ樋口は、ユダヤ人問題にも深く通じていた。樋口の演説を聴いたユダヤ人たちからは、割れんばかりの拍手が起きたという。
しかしその後、樋口のもとには陸軍内の親独派などから批判が寄せられた。時は日本とドイツが友好国として急速に距離を縮めていた時代である。樋口の「ナチス批判」を問題視する声は小さくなかった。だが、樋口は「困っている者を助けるのが日本精神」として、それらの声を一蹴。自身の言動に間違いがないことを固く信じていた。「信念の人」であった。
オトポール事件
昭和十三年三月、そんな樋口のもとに想定外の一報が届く。それは「ソ満国境のオトポールの地にユダヤ人の難民が姿を現した」という知らせであった。
ナチスの弾圧から逃れるため、シベリア鉄道を利用して東進してきたユダヤ難民たちは、満洲国への入国を求めていた。しかし、満洲国外交部は入国ビザの発給を拒否。日本と友好関係にあるドイツの顔色を気にした結果である。
続きは、「正論」7月号でお読みください。