雑誌正論掲載論文
金正恩「死亡情報」が物語るもの
2020年06月05日 03:00
産経新聞台北支局長 矢板明夫 「正論」7月号
今月は中国と北朝鮮の関係について取り上げたいと思います。というのも先日、北朝鮮の最高指導者、金正恩の容態をめぐって世界中のメディアが翻弄される出来事が起こったからです。「生存はしているが心臓に問題を抱えている」という情報もあれば「全く何の問題もなく健在」という情報もありました。「再起不能ではないか」「いやもう死亡しているのではないか」といった情報が錯綜した末、五月二日に二十日ぶりに姿を現した金正恩の映像が北朝鮮の国営メディアから公表され、ひとまず「生存」は確かめられました。
中国と北朝鮮は切っても切れない関係ですが、周辺国には推し量れない、ただならぬ空気が横たわっています。中国が北朝鮮の最高指導者の「死亡騒動」で、どんな動きをしたか。中国は今、北朝鮮にどんな思惑を抱いているか。そんなことを考えてみたいと思います。
北京での特派員時代、独裁国家の指導者の動静をめぐって情報が流れ、その確認に走る−こうした機会はしばしばありました。金正恩の父、金正日の「死亡情報」の確認も実際に経験しました。いうまでもなく北朝鮮は極端な情報統制を敷く閉鎖国家です。最高指導者が何日も姿を隠し、動静がつかめない、といったことは珍しくない。金正日の「死亡情報」はそれまでも何度も流れました。
「温家宝失脚説」「江沢民死亡説」といった中国の指導者の生死などについて確認に走ったこともあります。「習近平国家主席が暗殺されたらしい」「いや暗殺未遂だったらしい」という情報にも振り回されました。
手にした情報を額面通りに受け止めるわけにはいかない。確認した結果、「全くのガセだった」なんて結末は珍しくないからです。ですが中には「当たり」もあります。はじめから目を背けるわけにはいきません。断片的に正しいが、ある部分が針小棒大に膨らまされていたり、逆に全体的には「はずれ」だが、権力内部の反目や暗闘、闘争が繰り広げられていることを示す場合だってあります。情報源が一定の思惑を込めて情報を流すのです。どこかに「毒」が盛られているのが当たり前。しかし、その「毒」がどこにあるかはわからない。確認した末、結局は、徒労に終わったケースだってあります。実に千差万別です。
ですが長年、こうした経験を積み重ねると、「これは恐らく、真実ではないだろう」というケースはあります。何となく胡散臭さを感じ、筋が悪いと感じる情報はあるのです。決めつけは禁物ですが、明らかに情報の出方がおかしい。そう懐疑的になる場合もあります。実は今回の金正恩の「死亡説」や「脳死説」が正にそのケースでした。
中国発の詳細な「死亡情報」
具体的に見てみましょう。金正恩の「死亡説」に接したとき、まず感じたのは第一報から情報が揃いすぎているということでした。
《金正恩がピョンヤン郊外の視察中、心筋梗塞で倒れた。北朝鮮は中国に連絡し、中国医学院の国立循環器病センターと人民解放軍三〇一病院から五十人近い医療チームが平壌に派遣された。医療チームが来るのを待つ間、北朝鮮の医師が緊急の心臓ステント手術に臨んだが、北朝鮮の執刀医師は、非常に緊張し、金正恩ほどの肥満の患者を手術した経験に乏しく、ステントを入れるのに八分もかかってしまった。金正恩は植物人間になって中国の医師が到着したときにはなす術がなかった》
こうした情報はいずれも中国発で流れたものです。ですが、私には詳細すぎる気がしました。
続きは、本誌7月号をお読みください。