雑誌正論掲載論文
わが家を襲った「8050問題」(最終回) 元農水次官の事件に何を学ぶか
2020年02月25日 03:00
産経新聞WEB編集チーム 飯塚友子 「正論」3月号
ひきこもる中高年(五十代)の子供を、高齢の親(八十代)が支える「8050問題」は、一年前には一般に、ほとんど知られていなかった。私自身がひきこもりの兄弟姉妹の立場で、当事者として問題にスポットを当てたいとの思いがあり、昨年の月刊正論七月号から、この連載を始めた。すると発売時期に偶然、川崎市のひきこもり傾向にあった男(当時五一)の無差別児童殺傷事件と、元農水次官(七六)によるひきこもりの長男(当時四四)の殺害事件が連続して発生。よくも悪くも「8050問題」が一気に、クローズアップされるようになった。
この問題と事件を安易に結びつけることは、ひきこもりへの偏見につながるので、避けたい。ただ私には、特に元農水次官の事件はひとごとに思えなかった。被害者である長男と自分の年齢が近く、また両親の教育熱心さや、子供がひきこもってしまった点が共通するからだ。連載の締めくくりに事件を裁判資料などから振り返り、再考したい。
実刑判決も異例の保釈
元農水次官、熊沢英昭被告の事件は、官僚組織のトップまで務めた人間が、息子を手にかけたという異例さも手伝い、発生当初から注目を集めた。
事件をおさらいすると、熊沢被告は昨年六月一日、自宅で長男、英一郎さんの首などを包丁で多数回突き刺し、失血死させた。十二月十六日、東京地裁の裁判員裁判の判決公判で、中山大行裁判長は「強固な殺意に基づく危険な犯行」として熊沢被告に懲役六年(求刑懲役八年)の実刑判決を言い渡した。争点は量刑で、弁護側は執行猶予付きの判決を求めた。
それというのも熊沢被告は、大学進学と同時に一人暮らしを始めた長男の住まいに、月一回程度通い、主治医に状況を伝えて処方薬を届け、ゴミ出しの世話をするなど、長年、献身的に世話をしていた。裁判員はこうした生活状況を考慮。判決も、熊沢被告について「適度な距離感を保ちつつ、安定した関係を築く努力をした」と判断したが、三十を超える遺体の傷の多さや、傷の深さから、殺意の強さを認定した。
さらに熊沢被告が、主治医や警察に相談するなど、現実的な対処方法があったにもかかわらず、外部に相談せず、昨年五月に同居してから約一週間で殺害したことも「短絡的な面がある」として、実刑相当と判断した。
ただ弁護側の証人尋問で出廷した熊沢被告の妻も、長男の主治医も、熊沢被告が誠実に長男を支援していた事実を訴え、減刑を求めた。また、熊沢被告に対する多くの嘆願書も出されていた。判決直後、東京高裁が熊沢被告が実刑判決を受けたにもかかわらず、保釈を認めたのも異例だった。
「あるべき長男」求めた父親
熊沢被告は事件直後に自首し、公判では「罪を償い、息子があの世で穏やかに過ごせるよう祈りをささげることが私の務めだと思う」と述べた。長男の冥福を祈りながらも、最後まで謝罪の言葉はなかった。
法廷での言葉より、熊沢被告の本音が出ているのが、長男と別居中の平成二十九年十一月から令和元年五月まで、ツイッター経由で長男と交わした、膨大なメッセージの内容である。約一年半の間、熊沢被告からは九百九十五件、長男からは百四十一件が送付され、七対一の割合で、父親のメッセージが多い。その一部を以下、抜粋する。
熊沢被告「ペットボトルを捨てるのだよ」「捨てましたか」「捨てたか」「明日はごみの日」「(メッセージを)読んでいるのか」「返事ないと電話するぞ」
長男「捨てました」
熊沢被告「ひげはそったか」「健康的な生活を送りましょう」「(ツイッターで)本名を出してはダメだ」
長男「もうばれてドラクエテンで拡散中です」
熊沢被告「こっちにも迷惑かかっている」「ドラクエから手をひけ」「75歳の父が息子のゴミを片付けるのは滑稽だ」「ゲームより実生活が先だろ」「ペットボトル(のゴミ出し)で前の家と不動産から苦情が来た」
長男「次のゴミで捨てる」
熊沢被告「家の前に(ゴミを)捨てるのはとんでもない」「アスペルガーの悪いところです」
発達障害の一種であるアスペルガー症候群のため、長男は社会性に乏しく、物事を被害的に捉え、片付けが苦手な傾向があった。しかし熊沢被告の細々とした指示からは、長男の病を受け入れられず、最後まで「あるべき姿」を求め続ける親心がにじみ出ている。
一方、長男はツイッターで、社会的に高い地位にあった父親を誇る記述をしながらも、「子と親は別の存在。子は親の所有物じゃない」「成績が悪いと玩具を叩き壊す愚母」「(自分の病について)理解されないことが病そのものより辛い」などと書き込んでいた。幼少時から、病と親の対応に苦しみ続けてきたことがうかがえる。
「親の価値観」に苦しむ子供
事件に至る背景に、長男のひきこもりと、家庭内暴力が大きく影響していたことは間違いない。長男は都内有数の進学校である私立中学に入学したが、中学二年頃、いじめをきっかけに母親への暴力が始まり、それは長男が別居する大学一年まで続いた。
証人尋問で出廷した熊沢被告の妻は、長男が中学時代、学校で画鋲を置かれたと〝いじめ〟を訴えても、「特に(詳細を)聞かなかった。いけなかったことだ」と対応のまずさを認めている。やがて長男から「バットで叩く、ライターの火と包丁を突きつけられる、壁に穴を空ける」という暴力が始まり、肋骨へのひびや顔のあざなど深刻な被害を受けるようになる。長男は統合失調症と診断されたが、熊沢被告も妻も、学校には一切、相談をしていない。
長男の成育歴を見ると、熊沢被告が高い学歴を取得させ、社会で居場所を見つけられるよう苦心した跡がうかがえる。長男は平成五年に高校卒業後、中堅私大理工学部に進学。一人暮らしを始め、休学と退学を経て十年、別の私大の二年に編入し、十三年に卒業した。さらにアニメの専門学校やパン製造技術も取得、熊沢被告の義弟の勤める病院に就職した時期もあったが、やがてひきこもり、ゲームに熱中する。
続きは「正論」3月号でお読みください。
■ いいづか・ともこ 昭和46年生まれ。早稲田大学卒業後、産経新聞に入社し、文化部で舞台芸術を担当。