雑誌正論掲載論文

〝蛆山〟に眠る戦没者遺骨 収集は政府の義務だ

2019年12月25日 03:00

ジャーナリスト 長谷川学 「正論」1月号

政府の遺骨収集事業の信頼性が根底から揺らいでいる。厚生労働省がシベリアから持ち帰った遺骨が日本人ではなかったという驚くべき不祥事が発覚したからだ。

政府は二〇一六年に「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律」を施行。一六年度から二四年度までを遺骨収集の「集中実施期間」と位置づけ、一六年度以降、毎年、約二十三億円を支出し、遺骨収集にはずみをつけようとしていた。

その最中の不祥事である。それでなくとも遺骨収集事業は遅々として進んでいない。海外で戦病死した旧日本軍の総数は約二百四十万人だが、このうち日本に戻れた遺骨は約百二十八万人に過ぎず、約百十二万人の遺骨が日本への帰国を待っている。彼らは、いつ日本に帰れるのだろうか。

住民も恐れる山に日本軍兵の遺骨

今年八月、ミャンマー(旧ビルマ)の知人から旧日本軍の遺骨に関する情報が届いた。

「ミャンマーに〝蛆山〟と呼ばれる山がある。そこには旧日本軍将兵の遺骨が大量に野ざらしになっていて、日本に帰る日を待っている」

教えてくれたのは、ミャンマーで農業指導をしている我妻豊氏(六四)だった。

我妻氏は、ミャンマーのケシ不法栽培地域の住民に農作物への転作を指導する内閣府認証NPO法人「アジアケシ転作支援機構」の理事長である。

我妻氏は一九九一年に、シベリア抑留経験のある父親から「ミャンマーに行って、ビルマ戦線で戦死し、遺骨すら帰らなかった兄の慰霊をしてきてほしい」と頼まれ、初めてミャンマーを訪問。現地住民らから、悲惨な戦争の実態や、多くの日本兵の遺骨がいまだに日本に帰れずにいる事実を知らされ、大きな衝撃を受けたという。

「それ以来、ミャンマーに入れ込み(笑)、かれこれ三十年。インパール作戦に参加した部隊の兵士の遺品の収集や、ミャンマー各地の旧日本兵の慰霊を重ねる一方、厚労省などと組んで、ケシ対策の農業支援や、ミャンマーの緑化事業などを手がけてきました」

もともと、我妻氏に蛆山の存在を伝えたのは、カチン州の七つの部族の一つ、カク族の長老だった。長老とは農業指導の過程で懇意になった。

「日本兵が鬼神のように戦った山がある。大勢の日本兵が死に、大量の蛆が湧いた。地元では『ラウタン』と呼び、だれも畏れて近づかない」

長老はそう話した。「ラウ」はミャンマー語で蛆、「タン」は山の意味だ。

我妻氏によると、蛆山があるのは、インドとの国境に近いミャンマー北部のカチン州フーコン。フーコンはインド・ミャンマー国境にまたがるパトカイ山系、ワンタク山系などの山々に囲まれた渓谷である。「フーコン谷地」とも呼ばれ、大小の河川が縦横に走り、樹木が密生、倒木や蔓草などが交錯する難所だ。

谷地というと、日本では山に囲まれた狭い渓谷のイメージがあるが、フーコン谷地は広大で、長野県ほどの広さがある。

「フーコンは、ミャンマー語で〝死の谷〟を意味します。雨期には間断なく豪雨が降り注ぎ、一帯は泥地と化す。古くから悪疫瘴癘の地として恐れられていて、マラリア、赤痢、チフス、コレラ、ペストなどが流行。虎や豹、大量のマラリア蚊、野象、ニシキヘビ、山ヒルなども出没し、カチン州の人々からも『一度入ったら生きて出られない』と恐れられてきました」(我妻氏)

後で触れる筑紫峠をはじめ、戦時中のフーコン谷地は、まさに〝死の谷〟だった。

軍人だけではなく、民間人も大勢亡くなった。日本軍による全ビルマ制圧時、約三万人の避難民が連合軍の敗残兵に従いフーコン谷地に殺到した。インドを目指した彼らは、折からの雨期にたたられ、約七千人が疫病と疲労により死亡した。

このフーコン谷地で、日本軍は一九四三年十月から八カ月間、食料と武器弾薬の補給を絶たれる中、米英インド・蔣介石軍と戦い、「フーコン作戦」という壮絶な戦いを繰り広げた。

軍事史学会理事でフーコン作戦に詳しい和泉洋一郎氏(元陸上自衛隊幹部学校戦史教官)が語る。

「連合軍の兵力はフーコンを守備する第十八師団の少なくとも四倍はありました。フーコン谷地は広いところだと東西で八十キロもあります。通常、一個師団が守れるのは十キロ程度。その広大な地域を敵の四分の一の兵力で守ることになったのです」

防衛庁防衛研究所戦史室編『戦史叢書「インパール作戦・ビルマの防衛」』によると、フーコン作戦での旧日本軍の損失は、戦死約三千二百人、戦傷病約一千八百人。戦傷病者も間もなく死亡する者が多かったという。

このため他の資料には死者約五千人とあり、フーコンに参謀として派遣された野口省己氏の『回想ビルマ作戦』では、病気や負傷で後方に送られた者も含めると、日本軍の損失は約一万人となっている。

これはフーコンやミートキーナなどを守備した第十八師団(ビルマ方面軍第三十三軍の隷下師団・師団長は田中新一中将)一万五千人の三分の二に相当する。

激戦地では将兵の遺体は、戦友が指を一本切り取り、持ち帰るのがせいぜいとされる。つまり指一本になって帰国した将兵についても、体はいまもフーコンで眠っていることになる。しかも、フーコン作戦後のビルマ各地での激戦を考えると、多くの遺骨が指一本、故国に戻れなかった可能性が高い。

フーコン作戦を描いた田中稔元中尉の著書『死守命令』には、田中氏の凄惨な体験が綴られている。

「家族の写真を肌身につけた戦友が、迫撃砲の直撃や機関銃で、つぎつぎに戦死した。壕の中で死んだ戦友の小指を切って遺骨とし、土をかぶせて葬った。十数名の戦友の遺骨を持った兵士が、また戦死するというありさまであった」

「フーコン作戦」

ビルマの戦いと言えば、インパール作戦が有名だが、フーコン作戦は一般的に知られていない。

私自身、恥ずかしながら、我妻氏から聞くまでフーコンという地名すら知らなかった。だが、このフーコンは、連合軍と日本軍にとって戦略上の要衝だった。

日本軍は一九四二年五月にビルマ全域を攻略したものの、同年末には連合軍の反攻が始まった。連合軍のビルマ奪還作戦は、まず三正面(フーコン、中国の雲南、インドのインパール)からビルマに侵入して日本軍に限定攻撃を加え、その後、この三正面と、ビルマ南西海岸およびラングーンへの上陸作戦敢行とによって総反撃を実施するというものだった。

連合軍がフーコン、中国の雲南を侵入ルートにしたのは、レド公路(いわゆる援蔣ルート)が関係している。

先の和泉氏が説明する。

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■ はせがわ・まなぶ 昭和三十一年年生まれ。早稲田大学卒業。講談社「週刊現代」記者を経てフリー。週刊現代では当時の小沢一郎民主党代表の不動産疑惑(後に元秘書三人が政治資金規正法違反で有罪)をスクープ。近著に『成年後見制度の闇』(飛鳥新社刊・宮内康二氏との共著)がある。