雑誌正論掲載論文

後藤新平の「国難来」再来 政治の体たらくを憂う

2019年12月05日 03:00

国家基本問題研究所主任研究員 湯浅博 「正論」1月号

 およそ百年前、後藤新平による「国難来たる」との呼びかけは、まるで現代日本に警告しているかのように聞こえる。関東大震災から半年後の大正十三(一九二四)年三月、日本近代化に尽力した後藤は、国難とは鎌倉時代の元寇や、江戸湾に現れた黒船のような「惰眠を醒ます挙国緊張」ではなく、むしろ、ひそかに忍び寄る目に見えない危機であるとして二つの要素をあげた。

 一つは、「平和の仮面をかぶって、ぢりぢり寄せ来る外患」であり、もう一つは「美装に隠れ、国民の肉心をむしばむ内憂」であると見抜いた。波濤を越えてくる元寇や黒煙をはき出す黒船は、人々が「自ずと備えの大決心」をするが、平和の仮面をかぶって寄せ来る奸賊は「人これに気づかないが故に備えず」と注意を喚起したのだ。

 後藤は満鉄総裁、外相、内相として日本の近代化を牽引し、関東大震災に際しては「天の啓示」と帝都復興院総裁として国全体の立て直しに乗り出した。後藤の時代の日本は、内には大震災、外にもロシア十月革命(一九一七年)、第一次大戦の終結(一九一八年)、アメリカの排日移民法施行(一九二四年)がその前後にあった。そして後藤は、第一次大戦後の世界を形づくったベルサイユ条約に接して、やがて第二次大戦が到来するかもしれないとの危険をいち早く予見した。

「あの条約調印の当時、まったくの門外漢としてロンドンにいた私は、その時すでに、この条約調印の日は、世界戦争の終わりの日ではなく、むしろ第二次世界動乱の始めの日であると直感した」

警告その一 「むしばむ内憂」

 後藤の警告からおよそ一世紀。東北帝国大学での講演をまとめた『国難来(こくなんきたる)』(藤原書店)が復刻されたのは、目先の利く編集者の慧眼に違いない。近頃の日本列島は東日本大震災や幾多の風水害に見舞われ、「国民の肉心をむしばむ内憂」に近い試練を味わった。そして、現代日本を取り巻く国際環境もまた、後藤のいう「平和の仮面をかぶって、ぢりぢり寄せ来る外患」が、四方の海から忍び寄ってくるようだ。

 海を隔てた大陸は、毛沢東以来の権力を握った習近平国家主席が、独裁制へと歴史を逆走させている。半島では、北朝鮮〝王朝〟の三代目が核ミサイルを抱いて離さず、韓国の反日政権は北の顔色ばかりうかがっている。そして、北方には、衰退の著しいロシアが大国意識にしがみつき冒険主義をひた走る。

 日本は戦後世界秩序を破壊するこれら全体主義国家との最前線にありながら、後藤のいう「国難来たる」という危機意識がまったくない。これを少しでも回避しようと、安倍晋三首相がふかした日本国憲法改正の審議はなお歩みが遅い。香港デモで流血の人権弾圧があっても、日本政府も国会も批判の声を上げないのはどうしたことか。

 安倍首相も参加した八月の主要七カ国首脳会議(G7ビアリッツ・サミット)は、中国が約束した通りに香港に高度の自治を認め、大規模デモを暴力で鎮圧しないよう求めることで合意したはずだ。イギリス政府はいち早く香港警察によるデモ隊への実弾発射を非難する外相声明を出し、アメリカ議会は下院がデモ隊の民主化要求を支援する法案を全会一致で可決している。

 それに比べて、日本の政界は何をためらう。香港当局の弾圧政策も、その背後にいる中国に対しても、ごく一部を除いてまったく批判しようとしない。与党も野党も香港の人権問題で動こうとせずに、「中国を刺激せず」などと口をつぐむ。民主主義の議会として、内外に向けて「弾圧反対」の国会決議一つ出していないのだ。

 タコつぼ状態の立憲民主党や国民民主党は、国内で大きな口を叩くが、外に向かってはからきし意気地がない。モリカケ問題が不発に終わったためか、今度は首相主催の「桜を見る会」で、支持者を招待したことが「利権だ」などという。民主党政権でも踏襲してきた桜の行事を「縮小か中止か」で済むものを、「政権追及」だというのだから政治が小さい。上智大学名誉教授だった渡部昇一は、「衆愚政治でも外敵さえいなければいい制度であろうが、この世界には常に外敵がいる」と的確に述べていた。

 実は、後藤の時代も、多数党の横暴だとする野党が護憲運動で気勢を上げたのに対し、彼は「自分たちの無力と信用のなさを告白する自殺行為なのではないか」と見抜いている。そして、「無意義な政争は結局国難を強めこそすれ、国難を決して救うものではない」として、憲政の王道を歩むよう叱咤しているのだ。後藤が百年後の日本国会の現状を知ったら、当時と同じように「最大級の国難として挙げざるをえないのは、政治の腐敗・堕落である」と、繰り返すだろう。当時の政治が無策のうちに迎えてしまったのは、後藤が予感した第二次大戦の災禍であった。

「わが国はおそらく第一次世界戦争当時のような傍観者的地位にいることはできないであろう。その第二次世界動乱の大波濤はかならず東洋方面に倒れ来たって、ついにわが国の国難となるであろう」

警告その二 「ぢりぢり寄せ来る外患」

 政治の体たらくの間に、「平和の仮面をかぶって、ぢりぢり寄せ来る外患」は日本の周辺で確実に迫っている。ベルリンの壁が崩壊して三十年後のいまは、冷戦時代よりもはるかに危険で複雑な安全保障環境の中に放り込まれている。新たに台頭してきた中国の巨大パワーが、香港人を弾圧し、台湾の併合を試みつつ、西太平洋を勢力圏に取り込もうとしているのである。

続きは「正論」1月号でお読みください。

■ ゆあさ・ひろし 昭和二十三年生まれ。中央大学法学部卒業。プリンストン大学Mid-career program修了。産経新聞ワシントン支局長など歴任。近著に『中国が支配する世界 パクス・シニカへの未来年表』(飛鳥新社)。