雑誌正論掲載論文
表現の不自由 露になったマスコミの病理
2019年09月15日 03:00
産経新聞大阪正論室 小島新一/白岩賢太 「正論」10月号
耳を疑いたくなるような記者会見だった。愛知県内で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、企画展の一つ「表現の不自由展・その後」の中止が決まった八月三日、芸術監督を務めるジャーナリスト、津田大介氏が開いた会見である。
「想定を超える事態が起こったことを謝罪する。僕の責任であります」と全面的に非を認めた津田氏の会見は当初の三十分間の予定を大幅に超過し、一時間以上に及んだ。会見場には、地元名古屋市を拠点とする中日新聞や全国紙、通信社の駐在、テレビ各局、雑誌、フリーランスの記者など、ざっと五十人はいただろうか。筆者(白岩)もその場に居合わせたが、津田氏の釈明もさることながら、質問を繰り返す一部の記者の発言内容には違和感を抱かざるを得なかった。
「(不自由展の中止を求めていた)河村たかし名古屋市長や(文化庁の芸術祭への助成に慎重姿勢を示した)菅義偉官房長官の発言は検閲だと思うか」
「電凸(企業や団体などに電話をかけて見解を問いただす行為)をやれば、自分たちの気に入らない展示会などの催しを潰せるという成功体験を与えてしまったのではないか」
当然だが、たとえ気に入らない表現や作品でも、暴力による圧力や脅迫行為が許されることはない。とはいえ、彼らの質問は憲法二一条が保障する表現の自由への介入を憂うものばかりで、昭和天皇の肖像を燃やす映像や慰安婦をモチーフにした「少女像」(以下、慰安婦像)のいったい何が「芸術」なのか、それを追及しようとする記者はほぼ皆無だった。
要するに、集まった記者の多くが、「表現の不自由展」を中止に追い込んだ抗議電話の殺到、脅迫行為、河村たかし市長をはじめとする政治家の主張だけをことさら問題視したのである。各社が後日報じ、論じた内容が、そういったトーンになったのは、ある意味必然だったのかもしれない。
放火予告のようなファクスを送り付けた脅迫行為は論外だが、一千件以上も寄せられた抗議電話もそれと同列の「テロ行為」であるかのように論じるのは明らかにおかしい。一般論として、展示会の主催者が外部からの指摘で自主的に催しを中止することはあり得る。むろん、個人が展示内容を自由に論評・批判する権利もある。
にもかかわらず、八月六日付の朝日新聞社説「あいち企画展 中止招いた社会の病理」は「人々が意見をぶつけ合い、社会をより良いものにしていく。その営みを根底で支える『表現の自由』が大きく傷つけられた。(中略)一連の事態は、社会がまさに『不自由』で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた。病理に向き合い、表現の自由を抑圧するような動きには異を唱え続ける。そうすることで同様の事態を繰り返させない力としたい」と主張した。昭和天皇の肖像を燃やし踏みつける映像や慰安婦像の展示を批判する意見や抗議は、どうやら朝日社論の十八番である「多様性」には含まれないらしい。
そもそも、同展で展示された昭和天皇の肖像を燃やす映像やエッチング作品の何が芸術なのか。特定の政治的主張、あるいはプロパガンダに過ぎないのではないか。公金を使って展示することは、公権力がその主張なりプロパガンダに同調することにならないか。
「表現の不自由展」の中止問題を扱ったメディアの多くは、この問いについて論じようとしなかった。特にテレビの多くは昭和天皇の肖像を燃やす映像に触れることすらなかった。国民の多くに強い不快感や屈辱感を抱かせる刺激の強い映像を紹介することが憚られたのか、天皇をめぐる問題としてタブー視したのか。あるいは不自由展を応援したい番組側が、批判が集中するだろう映像を意図的に隠したのか。
活字メディアで中止問題を最も熱心に扱った朝日新聞は、「焦点となっている作品は、慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品」(八月六日付第三社会面の特集)などと、たびたび映像について触れてはいる。しかし、芸術作品としての妥当性には踏み込まず、表現の自由の議論に持ち込むだけだ。
こうした議論の建て方は、同芸術祭実行委員会会長の大村秀章愛知県知事や津田氏とも共通する。その欺瞞と無責任さに正面から切り込んだのが、八月十三日に芸術祭アドバイザーの辞意をツイッターで表明した批評家の東浩紀氏だ。
続きは「正論」10月号でお読みください。