雑誌正論掲載論文
食いものにされる球児 感動あおるメディア
2019年08月25日 03:00
元プロ野球選手 大野倫 (聞き手 産経新聞那覇支局長 杉本康士) 「正論」9月号
平成三年夏の全国高校野球選手権大会で最も注目を集めた選手は、決勝戦で敗れた沖縄水産の大野倫投手だった。大野投手が右肘に故障を抱えながらも六試合で七百七十三球を投げ抜いたことがきっかけとなって、投手の酷使をめぐる論争が起こった。あれから長い時間を経て、日本高校野球連盟はようやく投手の球数制限の検討に着手した。「悲劇のヒーロー」となった大野氏に当時の心境と、あるべき高校野球の姿を聞いた。
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僕の右肘に異常が出たのは、高校三年生の四月か五月でした。キャッチボールしているときに、右肘がブチっと音を立てたんです。壊れた音みたいな感じでしたね。その前日は熊本県の強豪校とダブルヘッダーで、両試合とも完投して勝ちました。強豪チームをしっかり抑えられて、夏の県予選に向けた手応えを感じていた直後でした。
監督にもチームメートにもけがのことは言えませんでした。沖縄の夏の県大会は六月に始まります。時期が時期だったし、私とエース争いをしていた投手も内臓疾患で野球ができない状況でした。「ちょっとマズいな」と思い、言うに言えず、そうこうしているうちに県大会に突入しました。
当時、沖縄水産は甲子園の常連校でした。前年の甲子園で準優勝して沖縄に帰ってくると「来年こそは」という周囲の期待を感じました。道を歩いていると、見ず知らずのおばあちゃんが手を握って「来年は絶対、優勝してね」ってお願いするんです。エースで四番も打っていたので、僕が離脱するイコール負ける、という思いでした。
今の僕がもう一度同じ状況になっても、やはり、けがした状態で投げていたと思います。甲子園と縁遠いチームであれば、自分の将来を見据えて投げないという判断もできたんでしょうけど、そういう状況じゃなかった。
右肘がおかしくなってからは、一四五㌔あった球速が一二五㌔ぐらいに落ちました。コントロールも効かない。練習試合では打たれるようになってしまい、負けが込みました。チームに余裕がなくなり、控えの投手に投げさせるという感じじゃなくなりました。県大会は一イニングだけ下級生の投手が投げて、あとは全イニング、僕が投げました。
準決勝まで勝ち進んだところで、栽弘義監督に右肘のけがのことを打ち明けました。準決勝の相手が最大のライバルだった那覇商業だったので、万全を期したいと思ったんです。痛み止めの注射を打って臨むことにして、準決勝、決勝をしのぎました。県大会で優勝したときは、うれしいというよりも、ほっとしましたね。最低限の目標はクリアしたという安心感でした。
肘の状態も悪かったので、甲子園では一勝か二勝できれば十分だと思っていました。栽先生も甲子園では痛み止めの注射を打つなといいました。痛み止めを打って投げると、けがが悪化しかねませんから。僕の将来のことを考えての判断だったんだろうと思います。
ところが、不思議とギリギリの試合を一つずつ勝ち、決勝戦まで進みました。
続きは「正論」9月号でお読みください。
■ おおの・りん 昭和四十八年生まれ。沖縄水産高の外野手、投手として平成二、三年の夏の甲子園で二年連続準優勝。九州共立大に進学後に野手に転向。七年、プロ野球・巨人にドラフト五位で入団。ダイエー(現ソフトバンク)を経て十四年に引退。現在はNPO法人「野球未来.Ryukyu」理事長。沖縄県うるま市のボーイズリーグ「うるま東ボーイズ」で監督も務める。