雑誌正論掲載論文
同級生が語る横田めぐみさん
2019年07月25日 03:00
会社員 眞保恵美子 「正論」8月号
北朝鮮による拉致事件の被害者、横田めぐみさんとは小中学校の同級生でした。
めぐみさんが新潟小学校に転校してきたのは小学校六年生、昭和五十一年九月のことでした。転校初日、学校から帰宅しようとする私に自ら近づいて「ねえねえ、眞保さんって合唱部なんでしょ? 私も合唱部に入ろうと思うの、よろしくね!」とはじけるような明るい声で話しかけられ、私がびっくりしたことを今も覚えています。
「私、前の学校では『ヨコ』って呼ばれてたの。そう呼んでね!」
以来、互いに「ヨコ」「ボンボさん」と呼び合い、あっという間に打ち解けていきました。私のクラスの合唱部員はめぐみさんを入れてわずか三人。帰り道も同じ方向で、すぐに互いの自宅を行ったり来たりするようになりました。
明るくにぎやかなめぐみさんはよく通る声でおしゃべりしながらやってきます。母に「一区画先からでもめぐみさんが来るのは分かる」と言われるほどでした。
三人は少女漫画が大好きでした。めぐみさんは特に池田理代子さんの大ファンで、『ベルサイユのばら』風の絵を沢山描いていました。最初は互いの家で絵を描いて過ごしていましたが、そのうち、ノートにイラストや詩を書いて、交換日記のようにリレー形式で回し始めました。
三人で一つの物語を創作したこともありました。タイトルは「ドイツに生きる少女たち」。私たちは「まるド」と呼んでいました。それぞれが女の子のキャラクターを決めて始めたはずだったのに、実は主人公の一人が女装していた男で、しかも怪盗アルセーヌ・ルパンだった、といった奇想天外な展開で、今思い返すと、顔から火が出そうな内容ですが、それでも精一杯想像の翼を羽ばたかせながら明日ストーリーがどう転ぶか分からない物語を繋いでいくのは実に楽しい日々でした。
最初から合唱部に入るつもりだっただけあって、めぐみさんは歌を歌うことが大好きでした。彼女の声には小鳥がさえずるような心地よさがありました。
ある時は掃除をしながら授業で習った歌を歌い、学校の廊下で休憩時間にも歌い、一緒にサイクリングに行った時は海の見える公園で海に向かって突然歌い始めました。「う〜み〜は広い〜な〜大き〜い〜な〜〜」。つい私も声を合わせて歌いました。一人だと、いきなり公園で歌ったりするなど恥ずかしくてできない私が何故かめぐみさんと一緒だと楽しく、次々と色々な歌を歌いました。のちに、北朝鮮でも同じ拉致被害者の曽我ひとみさんがめぐみさんと布団の中で小さな声で歌を歌ったと聞いた時には…。「ああ、本当にめぐみさんだ」と懐かしい思いが溢れました。今も歌うことがめぐみさんの心の癒しになっていて欲しいと願わずにいられませんでした。
明るくて可愛いめぐみさんはクラスでも人気者でした。でも、クラスの中心にいるというより、私のようなぐずぐずした子や内向的な子に気を配ってくれているように感じられました。
小学生の時、こんなことがありました。当時、泣き虫で悔しい時には思いを口に出せずに泣いてしまう私にめぐみさんがこう言ったのです。
「ボンボさん、人前で泣いちゃダメだよ。今度泣いたら髪の毛切っちゃうからね!」
そして、期限を設けてその期間は泣かないという約束をさせられました。私も頑張ったのですが、期限のギリギリ最後で少し泣いてしまいました。すると、その日、めぐみさんの家に一緒に行くと「もうちょっとだったけど、泣いちゃったからちょっとだけ髪切るね」。ほんの一房、私の髪をチョキンと切りました。そうして、「この髪、私の髪と一緒にとっておくね」。自分の長い髪を切った時に保管していためぐみさんの髪の束を見せてくれました。まさか、そのめぐみさんの髪が、のちに北朝鮮から示された「遺骨」の真贋を確かめるDNA鑑定に役立つとはその当時、夢にも思いませんでした。ただ、私のためを思ってくれた、めぐみさんの優しさが嬉しく、ますます大好きになりました。
中学に入るとクラスが別々になり、めぐみさんにも別の友達が増えていきました。でも、私はめぐみさんと少しでも長くいたくて昼休みは一緒に体育館で過ごすことがほとんどでした。めぐみさんは少し大人っぽくなり、少女漫画のような恋に憧れているように見えました。正に恋に恋する季節だったのでしょう。体育館では運動するわけではなく、バスケットをしている先輩方をただただ見つめて過ごし、その中に気になる人がいるようでした。
でも、めぐみさんらしいユーモアは変わりありませんでした。憧れの先輩に色々なあだ名をつけるのです。漫画の「オルフェイスの窓」の登場人物から取った「ユリウス」「クラウス」「イザーク」などはいいのですが、なかには「赤モンペ」とか「とが~(髪の毛を尖らせていた)」というのもありました。あまりに色々なあだ名が出てくるので私は誰が誰だかわからず困るくらいでした。
部活動も一緒にバドミントン部に入りました。人気のクラブで一年生だけで二十七人の大所帯です。夏休みまではみんな一緒に練習していましたが、新人戦に向けた選手に選ばれためぐみさんは体育館でシャトルを使って練習するようになり、別々のメニューをこなすことが多く、寂しかったことを覚えています。
また、練習が厳しく、帰宅しても疲れてなかなかイラストのノートも書けなくなっていきました。そんな中でも空いた時間を見つけては互いの家を行き来し、めぐみさんの十三歳の誕生会も仲が良かった三人で一緒に過ごすことが出来ました。
私たちが訪ねて行くと、めぐみさんのご両親や弟たちはいつも快く迎え入れてくれました。家族の仲がよく、私から見ると横田家は理想の家族でした。お母様はいつも優しく、私が約束もなしに訪ねて行っても「めぐみ、もうすぐ帰ると思うからお家で待っている?」と言って私を招き入れてくださり、写真を見せながら、めぐみさんについて色々話してくださいました。
選手に選ばれためぐみさんは、本当に一生懸命バドミントンの練習に取り組んでいました。そして迎えた新人戦。選手に選ばれためぐみさんは応援だけの私たちより一足先に会場の体育館に着いていました。試合前で不安だったのか私が会場に入ると、めぐみさんは嬉しそうな顔で「キャオ~! ボンボコ」と両手を広げて呼び掛けてくれました。その姿が目に焼き付いて、今も忘れられません。
その数日後、運命の日がやって来ました。
続きは「正論」8月号でお読みください。
■ しんぼ・えみこ 昭和四十年生まれ、拉致被害者、横田めぐみさんが通った新潟市の新潟小学校、寄居中学校の同級生。