雑誌正論掲載論文

天安門事件から三十年 《反共鼎談》民主化は不可能だ 中国人はチャンス失った

2019年06月05日 03:00

評論家 石平/静岡大学教授 楊海英/産経新聞外信部次長 矢板明夫 月刊正論7月号

楊 来たる6月4日で、民主化を求める中国の学生たちが武力で鎮圧され、虐殺された天安門事件から30年になります。あの事件は起きるべくして起きたものでした。中国の民主化運動は学生たちが中心となり抗日・反帝国主義を訴えた1919年の五・四運動から始まったといえますが、49年に中華人民共和国が誕生、そして59年に人民公社の成立と反右派運動があり、同じ年に民族問題の典型的な事例としてチベット人が蜂起し、ダライ・ラマ14世がインドに亡命しました。69年になると文化大革命が最盛期に突入し、その後、一応文革は収束しましたが、89年の天安門事件でせっかくの民主化の芽が摘まれるわけです。

 私はモンゴル人ですから、五・四運動の前までは漢民族の革命の対象で、つづいて「五族協和」の対象となりました。五・四運動からの中国の課題は、民主化とともに少数民族問題への対処がありました。天安門事件の少し前まで私は北京第二外国語学院で助手をしていましたが、石平さんがおられた北京大学にもよく顔を出して、少数民族出身の学生に会って、民主化が実現したら少数民族はどうするのか、我々のところはどうするのか、ということを議論していました。でも、ほとんどの学生は民族問題に関心を持っていませんでした。私の大学に、共産党の中央党学校を出た若い先生が来たのですが、彼は過激な民主派だったものの、少数民族問題については「あなたたち少数民族はもう十分、優遇されているからいいじゃないですか」という具合でした。私は民主化運動の限界を感じて、天安門事件が起きる前の89年3月に日本へ来たのです。

石 それはたしかに民主化運動の限界だったと思います。民主化運動に参加していた人間は当時も今も、中華思想については中国共産党とそんなに立場が違いません。というのも、例えば民主主義は主張しても、台湾独立は絶対反対なんですね。

 楊先生が仰った「天安門事件は起きるべくして起きた」という背景には、その中の当事者だった私からすれば、やはり毛沢東時代、特に文化大革命時代の個人独裁の弊害が極端にまで達してしまったことがあったと思います。毛沢東の晩年は、彼の全くの一存・指示で国家国民の運命が翻弄され、何千万人の命が失われました。共産党の高級幹部でさえ、いつでも毛沢東に殺されかねない、人権とか権利とかが極端にまで剥奪された時代でしたから、毛沢東死去後の反動も大きかったのです。若者たちや知識人の一部、あるいは共産党の開明派の中に、このままではこの国はもうどうにもならないという一種の共通認識があった。そこにまた80年代、改革・開放政策の中で西側の思想がいろいろ入ってきたのです。だから当時は、大学の中でもルソーを語らないと女の子も話を聞いてくれないほどでした(笑)。

楊 ルソーを語って愛を語っていたわけですね。

石 それが流行でしたから。そういう中で89年の天安門事件は80年代の時代的雰囲気の集大成で、60~70年代の中国共産党、特に毛沢東政権の極端な個人独裁に対する反省からの運動であったわけです。私などは当時、血が沸いて、理想・理念のために命を投げ捨ててもいいと思っていました。しかし30年経った今、振り返ってみれば、当時の学生リーダーたちも本当に民主主義とは何かを理解していたのか、といえば必ずしもそうではなかったのです。

 89年4月15日に胡耀邦元中国共産党総書記が亡くなったことを機に運動が始まったわけですが、考えてみれば奇妙なことであって、天安門の民主化運動のきっかけは共産党独裁政権元トップの死去だった。もちろん胡耀邦は共産党の中で開明派だったのですが、開明派といっても共産党は共産党でしょう。

楊 周恩来首相が亡くなったことがきっかけだった、76年の天安門事件も同じでしたね。

石 そして89年の天安門事件では、本当の意味での民主化要求はそんなにありませんでした。訴えの中心は反腐敗と、自分たちの行動は愛国行動であることを認めてほしい、ということだったのです。象徴的な出来事は、学生たちが人民大会堂に行って共産党に対して跪いて請願したことでした。中国3千年の伝統で結局、民主化運動といっても政府に対するお願いだったわけです。

楊 百年前の五・四運動は人民が下から立ち上がったものでしたが、共産党政権が成立してからの何回かの学生運動は皇帝に対して上奏文を出すときのやり方と同じで、封建時代とやり方が一緒なのです。89年のとき、我々は愛国的であることを標榜していました。ちなみに反日運動を起こすときも、常に「愛国無罪」ということを表明しなければ当局に取り締まられる、と中国人は肌で分かっているのです。

石 今から思えばそれも天安門事件の限界でした。しかしそれにしても、天安門事件はその後の中国に非常に大きな影響を及ぼしたと思いますが、矢板さんはどう考えますか。

矢板 共産党一党独裁である限り、中国は大きく変わることはないでしょう。その一党独裁の歴史をみると、まさに権力闘争の歴史であって、新しい挑戦者が出てきて既存の勢力と力が拮抗してくると、世論を利用したりして国民を巻き込んで政敵を倒そうとするわけですね。30年前の天安門事件もまさに共産党内の改革派と保守派との激しい衝突があって、改革派が学生たちを利用したという側面もかなりありました。

 当時、学生リーダーだった王丹さんとはつき合いが長いのですが、彼は天安門事件の後、しばらく刑務所に入って、98年に米国へ亡命しました。私は当時、ある雑誌の仕事で米国に着いた直後の彼にインタビューしたのですが「あなたが一番、尊敬する人は誰ですか」と聞いたら「周恩来です」と答えたのです。私はビックリしました。共産党の刑務所から出てきたばかりなのに、ですよ。やっぱり洗脳はすごいと思いましたし「共産党内に周恩来のように立派な指導者が出てくれば中国は良くなる。我々は汚職官僚を倒すため、立派な指導者のために戦っていたんだ」と、当時の学生のトップリーダーまでが思っていたわけです。まさに共産党内の権力闘争に利用されたということに他なりません。さすがに王丹も洗脳が解けたようで今はそうは思っていないようですが。

 そう考えてみると、鄧小平が改革開放を行って経済が良くなり、しばらく激しい権力闘争はありませんでしたが、習近平の登場でまた雲行きが怪しくなっています。振り返れば毛沢東の文化大革命も学生や若者を煽って劉少奇を倒した権力闘争だったわけで、共産党の一党独裁体制である限りは今後、また形を変えた天安門事件が起き続けるのではないかと思います。

楊 私は中国の大学で助手だったころ、授業するよりも「民主化とは何か」ということを学生に対して熱弁していました。そうすると文化大革命時代の反右派闘争と「下放」を経験した老教授がやってきて「それは危ない。お前たちは共産党の本当の怖さを知らない」と言うのです。老教授が「一生を投げ捨てることになる。場合によっては殺されるぞ」と言うのを、「そんなことはあり得ない」と聞き流していたのですが…。

石 天安門事件当時、すでに私は北京にはいませんでしたが、私を含めた学生たちは最後の最後まで、人民の代表である共産党政権が機関銃や戦車で学生を武力鎮圧するなんてことは絶対にあり得ないと信じていたのです。その信頼が6月4日にすべて崩壊しました。それまで数十年間、毛沢東時代にひどいことがあったとしても、若者たち・知識人たちには共産党への揺るぎない信頼がありました。それがあの一夜にして崩れ去った。

楊 今の石平さんのお話からいきなり結論めいた話になってしまいますが、私はいつかまた天安門事件と似たようなことが起こり得ると思います。

続きは月刊正論7月号でお読みください

■ せき・へい 1962年、中国・四川省生まれ。北京大学哲学部卒業。88年来日し、神戸大学大学院博士課程修了。民間研究機関を経て、評論活動に入る。2007年、日本国籍を取得した。著書多数。矢板明夫氏との共著に『私たちは中国が世界で一番幸せな国だと思っていた』。

■ よう・かいえい 1964年、中国・内モンゴル自治区生まれ。北京第二外国語学院大学日本語学科卒業。2000年に日本に帰化し、06年から現職。19年、正論新風賞受賞。『墓標なき草原―内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』など著書多数。近著に『独裁の中国現代史』。

■ やいた・あきお 1972年、中国・天津市生まれ。15歳の時、中国残留孤児2世として日本に引き揚げ。慶応大学文学部卒業。中国社会科学員日本研究所特別研究員などを経て2002年、産経新聞社入社。07年から約10年、産経新聞中国総局(北京)特派員を務めた。