雑誌正論掲載論文

新しい天皇陛下にお伝えしたいこと 日本よ、国家観を確立せよ

2019年05月15日 03:00

杏林大学名誉教授 田久保忠衛 月刊正論6月号

 新元号「令和」から受けた印象は「清新」だった。初めて日本の古典から引用し、めでたい月と風の和らぎを充てた。古来の伝統を続けつつ、その中に新しい時代の要素を積極的に採り入れていく日本の出発点に立ったと思う。令和時代にわれわれが取組まなければならない第一は、日本の国体とは何かをはっきりさせることではないか。

「国体」と言っても若い世代は「国民体育大会」と受け取るような現状であるから、なおさらそれが必要なのである。外国人の誤解も解かなければならない。第二は、戦後最大の国際情勢の変化の中で日本が生き延びていくには、環境の変化に積極的に、しかも素早く対応しなくてはいけない。それができるかどうかだ。

 平成の天皇陛下と同じ昭和八年生れの私は、新しい時代について何か書く前に、日本はよくぞ国体を守り、今日の繁栄を遂げたな、との実感を抱く。一面の焼け野原と化した東京、住いの近くの駅前の闇市、有楽町のガード下で米軍のジープに群がる女性たちは私にとって敗戦の悲しい印象だった。が、日本の原点は、かろうじて国体を護持したことであることはあとで理解した。

 大学を卒業し、時事通信社に入社して外信部勤務になったころ、初代社長の長谷川才次氏の直接の薫陶を受けたが、面白かったのは長谷川さんがデスクに来てときどき披露した終戦の秘話だった。戦前の国策通信社、同盟のロンドン支局長、外信部長、海外局長の経験の中の劇的な一つが、ポツダム宣言受諾の大ニュースを同盟が流したあとのバーンズ国務長官声明の処理だったという。

 AP電で入った声明の核心は「天皇および日本政府の政治大権が最高司令部に〝subject to〟する」とのくだりだ。長谷川さんが随筆に書いている言葉そのまま引用すると、「『隷属』と訳すのが当然なのだろうが、やはり『臣子の分』としてそういう言葉は使いたくないので、とっさの機転で『従属』と大いに緩和したつもりだったが、あの朝さっそく迫水書記官長から、『もう少しなんとかうまい言葉はないかね』と御下問にあずかった」そうだ。

 結局、外務省は「最高司令官の制限の下にあり」との訳をひねり出したが、八月十三日の閣議でこの外務省訳はおかしいのではないかとひと悶着あった。問題はバーンズ声明である。「日本国の最終的の政治形態は、ポツダム宣言に従い日本国民の自由に表明される意思で決定される」の文言と合わせて、相当に練られた文章だ。ポツダム宣言を受諾した日本政府の回答文には国体護持を確保しようと「右宣言ハ国家統治ノ大権(Prerogatives of His Majesty as a Sovereign Ruler)ヲ変更スルノ要求ヲ含ミ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」の了解事項が付せられていたが、バーンズは明快な回答を避けた。日本の受諾が無に帰しては元も子もなくなるし、さりとてポツダム宣言の要求は一歩も譲らない立場で、降伏後における天皇の地位を具体的に示したのだ。

 東京裁判で日本側弁護団の一人として加わり、鳩山一郎内閣のときに設けられた憲法調査会会長を務めた高柳賢三・東大名誉教授は「政治的には国体が護持されたから終戦にふみきるといった日本側に希望的観測を起させるような巧みな書きぶりであって、名文家を以って鳴るバーンズの一大傑作だともいえるであろう」と書いている(「自由」誌昭和三十七年五月号)。国体は護持されたかどうか解釈が曖昧のまま突入した占領期に天皇陛下の地位がいかに危うかったかは武田清子氏の「天皇観の相剋―1945年前後」に詳述されている。

 武田氏の立位置にはやや違和感を覚えるが、米国の新聞を中心とした国際的世論や極東委員会から出された天皇戦犯論の厳しさの紹介を改めて読んで思わず背筋が寒くなった。戦前の反動のようなものもあったろう。日本国内でも天皇廃止論が幅を利かせていた。

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■ 田久保忠衛氏 昭和8年、千葉県生まれ。早稲田大学卒業。時事通信社でワシントン支局長や外信部長などを歴任した。国家基本問題研究所副理事長、日本会議会長を務める。