雑誌正論掲載論文

バチカンはなぜ中国に屈したのか 落とし穴だらけの接近と和解

2018年11月15日 03:00

産経新聞パリ支局長 三井美奈 月刊正論12月号

 バチカン(ローマ法王庁)と中国は9月22日、カトリック司教任命権をめぐる暫定合意を発表した。1951年に断交した両者の「歴史的な和解」で、国交再開に向けて大きく踏み出した。だが、カトリック教会では、習近平政権がバチカンの「お墨付き」を盾に、信者に絶対服従を迫るのではないかという懸念があがる。共産党政権が宗教弾圧を強化するさなかに、法王フランシスコはなぜ対中接近を急ぐのか。

 合意発表は唐突だった。9月半ば、私はバチカンの訪問団が北京入りしたと聞き、バチカン詰めのイタリア人記者にメールを出した。司教任命権をめぐる交渉は以前から続いていた。「今回は進みそうか」と尋ねると、「無理だろう。3月に行った前回の交渉時点より、後退した感じだ」という返事が来た。発表があったのは、その翌日だ。「なぜ、今なのか」と、バチカン・ウォッチャーたちは一様に驚いた。

 というのも、中国当局は最近、バチカンの信頼構築の努力をぶちこわすように、宗教弾圧を強めていたからだ。

 中国のカトリック教徒は「公認」の数字で600万人。このほか、共産党政権の目を逃れて法王に忠誠を誓う「地下教会」が存在し、双方あわせた信者は1200万人近いという推計もある。「地下教会」の司教や信者は文字通り、当局の弾圧におびえながら、隠れ家で信仰を守る。江戸時代の「隠れキリシタン」さながらに、洞窟や地下室で息を潜めてミサを行っている。

 中国のキリスト教徒迫害を監視する米国のNGO「チャイナ・エイド」は9月はじめ、河南省で聖書や十字架が焼かれた様子を動画で公開した。本物かどうかを確認することはできないが、黒い煤になった聖書の山の前で、立ち尽くす信者が生々しく映っている。米フォックス・ニュースは、中国の当局者が、キリスト教徒に「信仰放棄」の書類への署名を強制していると報じ、過去30年来で「最もひどいキリスト教弾圧」だと論評した。

 しかも、今回の合意は、「バチカン側の譲歩」という色彩が濃厚だ。詳細な内容は公表されていない。報道によれば、中国が司教候補を提示し、法王が最終決定権を持つことで妥協が成立したとみられている。中国は形式上、法王の権威を認めたものの、この仕組みでは法王がいくら拒否しても、中国側が選んだ候補しか司教になれない。法王フランシスコは記者団に、「任命するのは法王です。これは、はっきりしている」と主張したが、現実には当局に近い人物を追認するだけということになる。

 カトリック教会は、法王が頂点に立つピラミッド組織である。「キリストの代理人」である法王が、世界に広がる教区の司教を任命し、司教が信者を指導するのが原則だ。「だれが司教を決めるか」は、「教会の最高権威はだれか」という問題に直結する。

 バチカンが中国と断交したのは、共産党政権が法王の司教任命権を認めなかったためだった。中国は1982年の憲法で「信教の自由」を明記したものの、法王が統べる教会を認めたわけではない。政府公認の教会「中国天主教愛国会」、つまり「中国製のカトリック教会」を作り出した。独自に司教を任命し、中には全国人民代表大会(全人代)のメンバーもいる。法王は破門で応じ、対立を続けてきた。

 今回の合意を「暫定」とすることで、バチカンは変更の余地を残した。「中国の宗教弾圧が続けば、解消する」という含みを示したためだろう。だが、現実には早くも中国ペースだ。バチカンは合意にあわせて、中国が独自任命した8人(うち1人はすでに死亡)を一斉に承認した。破門した司教も含まれている。

 真っ先に非難の声をあげたのは、香港カトリック教会の元最高指導者、陳日君枢機卿だった。民主化運動の支援者としても有名な人物である。ブログで「中国は『法王と合意したのだから、われわれに服従せよ』と迫るのではないか」と懸念を記した。

 陳枢機卿はかねて、法王の対中接近に警鐘を鳴らしてきた。今年5月、香港メディアのインタビューで、「法王は中国の現実がよく分かっていない」と嘆き、「合意を結べば、法王を慕う人たちは、『我々を弾圧する政府に法王が協力した』と思うだろう。ひどい話だ」と訴えた。教会ではタブーとされる、法王批判ギリギリの捨て身の抗議。それでも、合意を止められなかった。

 台湾の危機感も強い。バチカンは西欧で唯一、台湾と外交関係を結ぶ国である。駐バチカン代表(大使に相当)を務める李世明氏は10月2日に主催したパーティで、「中国共産党は常に、台湾を国際社会から排除しようとしている。だが、『台湾はずっと仲間だ』とバチカン高官は表明してくれた」と外交団に訴えた。その9日後、熱心なカトリック教徒の陳建仁・副総統がバチカンに飛んだ。故パウロ6世の列聖式に出席するという名目でも、関係つなぎ止めを求める狙いは明白だ。

 バチカン関係者によると、法王は中国側に「台湾との断交は要求しないこと」を合意の前提として求めたという。当面、台湾との外交関係は維持されるだろうが、将来、中国が「一つの中国」原則で揺さぶりをかけることは目に見えている。

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■ 三井美奈氏 昭和42(1967)年生まれ。一橋大卒。読売新聞エルサレム支局長、パリ支局長などを歴任。平成28(2016)年、産経新聞に入社。著書に『イスラム化するヨーロッパ』 (新潮新書) など。