雑誌正論掲載論文

反時代的「正論」 言論の衰退は止まず

2018年10月05日 03:00

評論家 西尾幹二 月刊正論11月号

 雑誌「正論」の創刊四十五周年にあたり、我が国の言論雑誌全体が今後いかにあるべきかについて問われたので、ここに改めて思うことを述べます。

 私は約十年前に、今はなき言論雑誌「諸君!」の二〇〇八年十二月号に「雑誌ジャーナリズムよ、衰退の根源を直視せよ」という論文を発表しました。内向きの当時の言論界にこの題名で思いのたけを語った自発的な訴えかけの文章でした。

 その後、十年が経ち、日本の情勢も変化し、インターネット上の表現の拡大など言論界も変化しています。しかし、あの時に指摘した問題点は、私の考える理想に照らせば何も変わっていません。十年前でもすでに言論雑誌は以前ほど読まれなくなり、発行部数の下降で苦境にありました。私は十年前に「読者は存在するのです。雑誌が、読者の要求に応えられていないのではないでしょうか」と書きましたが、今改めて「正論」にこの苦言を呈したいと思います。

 言論活動沈滞の根本的な原因は世の変化にあるのではなく、言論雑誌のあり方そのものにあるのではないか。それを、当時指摘した三つの問題点を再提示しながら論じてみたいと思います。

 あの時、私が挙げた一つ目の問題点は、「言論誌が政治を論ずるにあたって、思想政策論と政局論とを混同している」ということでした。当時は第一次安倍政権、福田政権、麻生政権と、短命の内閣が続いている時期でしたが、私はその当時の言論雑誌をこう評しました。

「これは新聞記者も同様ですが、だれが内閣総理大臣になるか、誰が入閣するかといった、先行き予想が、政治を語るのとイコールになってしまっています。」

 言論雑誌のこの傾向は四十五年前、「正論」が創刊されたころから、変わりません。かつては三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫のいわゆる「三角大福」の誰が次の首相にふさわしいか、「三角大福血風録」などといった、自民党抗争史のようなものがよく読まれましたが、このレベルのものは、読者も講談でも聞くように、権力闘争を面白がっているに過ぎません。

 この手の弊害は、今もあまり大きく変わっていない。左翼系では「安倍政権を倒す」だとか、保守系では「安倍政権しかない」だとかそんなことばかり論じている。最近も自民党総裁選で安倍晋三氏と石破茂氏の権力闘争、政局騒ぎなどが盛んに取り上げられました。新聞だけならともかく、言論雑誌なども一緒になって同じ事をしているのは見苦しい。

 政治家の能力をきちんと計ってなされているのならば、こうした遊びもまだ許されるのですが、そうではない。かつて、第一次安倍内閣以前に保守系論壇誌が、石原慎太郎内閣を作りたいという願望で覆い尽くされたことがありました。「正論」も「諸君!」もそういうことをやっていた。しばらくするとあっという間にそれがしぼみ、今度は安倍内閣待望論が一気に湧き上りました。しかし、現実に成立した第一次安倍内閣は、保守系論壇誌の基本的スタンスとは正反対の考えに立つ塩崎恭久氏を内閣官房長官に据え、その結果、政局は混乱に陥り、内閣はわずか一年で倒れたのです。

 私は十年前の「諸君!」論文で以下のように述べました。

「安倍晋三氏が総理になればすべてが解決するといわんばかりの論調が、保守系知識人のあいだに共有されたのは、ほんの二年前のことでした。」「安倍さんは首相在任中、自分とは正反対のリベラル派の塩崎恭久氏を、それとは知らずに、お友達だからと官房長官に据え、なんの疑問も感じないくらい政治的現実が見えない人です。身近な人間の正体が見えないのは、現実がとらえられていない何よりの証拠です。」

 第二次安倍政権は長期政権となっていますが、安倍氏は相変わらず、身近な人間の正体が見えていない。その証拠に一番の身内である昭恵夫人の言動が政権を揺るがす大きな問題となってしまいました。

 いずれにしろ、政局騒ぎが言論界の主要なテーマとなるのはおかしい。政治は政爭ではない。誰が政権をとるかということは大事ではあるけれど、それとさまざまな問題の解決そのものとは別のことなのです。言論雑誌が問うべきは、問題の原因はどこにあるのか、なぜこれこれの問題を解決できる人が出てこないのか、例えば安倍氏が解決できないならば、なぜ彼以外に人がいないのか、そこを問い詰めていくのが根本的課題ではないでしょうか。

 政治とは本来、内側から湧き起こる危機感、世界で起こっている出来事に対する敏感な反応、怒り、焦燥、これでいいのかという悶え、戦いへの意識、意志、そういうものが渦巻いてこそのものです。しかし、今はそのどれもが日本の国内から出てこない。そのこと自体が異常なことであり、だからこそ、それを問うていくのが言論雑誌なのです。誰が次の総理になるかなどということは、下の下の問題です。もちろん結果として誰が総理になるかということは重要な問題になるのですが、その前に果たすべき役割を言論雑誌は果たしていません。政治家に人がいないのならなぜいないのか、政治家に具体的に教えて行くくらいの見識で言論人は立ち向かうべきです。

 私が第二に挙げた問題点は、言論雑誌が経済を論じない、経済金融にあまり大きな関心を向けようとしないということでした。

続きは月刊正論11月号でお読みください

■ 西尾幹二氏 昭和10(1935)年生まれ。東京大学文学部独文学科卒。文学博士