雑誌正論掲載論文
「政治的な正しさ」をエンタメ・芸術に求めるのは正しいか
2018年08月15日 03:00
評論家 三浦小太郎 月刊正論9月号
1933年、ドイツでナチス党が政権を獲得以後、ユダヤ人排撃運動は全国的な高まりを見せた。それは政治とは無縁と思われていたクラシック音楽界にも及ぶ。著名な指揮者、ブルーノ・ワルターも、ユダヤ人であるというだけで攻撃を受けた。
ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは、ワルターの指揮する予定の会場に様々な妨害や脅迫を仕掛け、ワルターはついに演奏会を諦め、オーストリアに亡命する。ドイツを代表する指揮者、フルトヴェングラーは、ゲッベルス宛てに抗議の書面を送った。
「この手紙を差上げるに際して、私は完全に自分が芸術家であるとの実感を持っております。(中略)終局的には私は、ただ一つの境界線を認めるだけです。よき芸術と悪しき芸術の境界線です」
ところが現在のドイツは「ユダヤ人と非ユダヤ人との間に、理論的に仮借なき峻厳さで境界線が」引かれている。フルトヴェングラーはワルターたち優れたユダヤ人芸術家は、ドイツで活動する権利を奪われてはならないと訴えた。
フルトヴェングラーの立場は「芸術と政治は異なる次元の価値観を持つ」という、古典的な芸術観に根差していた。ゲッベルスは、あえてこの書面を公開し、自ら反論を行う。そこで示されたのは「政治と芸術」「政治と文化」に対する、全く新しい概念だった。
「自己を芸術家として感じ、事物を徹頭徹尾、芸術家の見地から御覧になるのは、貴方の権利といえましょう。しかしだからといって、今ドイツで行われている全体の動きに、貴方が非政治的態度で挑んでいいということにはなりません」
「政治もまた芸術であり、おそらく最高の、最も包括的な芸術であります。われわれ現代ドイツの政治を形成していくものこそ、芸術的人間だと感じているのです」
そしてゲッベルスは「よい芸術と悪い芸術」という境界線など現代社会では無意味だ、芸術の境界線は「国民的であるかないか」におかれるべきだと断定した(「宣伝的人間の研究 ゲッベルス」草森紳一著 番町書房)。
この論理は、ナチスの詭弁として簡単に否定できない強さを持っている。後半部のゲッベルスの言葉を、「政治はその理想や価値観をこの現実社会に実現する最高の芸術的行為である」と解釈し、さらに前半の言葉を、彼とは全く逆の概念で言い換えてみよう。
「自己を芸術家として感じ、事物を徹頭徹尾その見地から御覧になるのは、貴方の権利といえましょう。しかしだからといって、今世界で行われている、人権を守り、差別をなくし、平和を実現し、少数派の権利を守るという全体の動きに、貴方が非政治的態度で挑んでいいということにはなりません」
これは最近わが国で、いや世界各地で起きている現象と、不気味なほど照合しないだろうか。
アメリカを象徴する遊園地、ディズニーランドには「スプラッシュマウンテン」というアトラクションがある。これは映画「南部の唄」(1946年)を基にしているが、現在DVD化はされておらず、アトラクションを楽しんだ子供たちがこの映画を観る機会はほとんどないだろう。
映画の原作は、19世紀の作家JCハリスが収集・編集した「リーマスじいやの物語」だ。南北戦争後、元黒人奴隷の老人が、白人の少年に黒人民話を面白おかしく語る物語である。
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■ 三浦小太郎氏 昭和35(1960)年、東京都生まれ。獨協高校卒業。著書に『嘘の人権 偽の平和』『収容所での覚醒 民主主義の堕落』『言志舎評伝選 渡辺京二』(言志舎)。