雑誌正論掲載論文
かくして北朝鮮の人民たちは苦しみ続ける
2018年07月05日 03:00
龍谷大学教授 李相哲 月刊正論8月号
5月22日、米朝首脳会談の開催が危うい状況に陥ったことに焦りを募らせた文在寅韓国大統領はホワイトハウスに駆けつけ、トランプ大統領にこう問いただした。「北朝鮮がCVID(完全かつ検証可能、後戻りできない非核化)を決定するなら(北朝鮮)政権の安全を保証するだろうか」
「そうだ。はじめからそう言ってきた。(非核化すれば)金正恩は安全になるだろう。そして幸せになる。北朝鮮はとても繁栄するはずだ」
トランプ米大統領が公の場で北朝鮮の「体制の安全保証」に直接言及したのはこれが初めてのことだった(5月23日付、韓国の「メディアス」)。韓国政府は「その意味は大きく、米朝首脳会談の雰囲気づくりにプラスに働くだろう」と歓迎の立場を表明した。
そしてシンガポールで開催された6月12日の米朝首脳会談で米国は北朝鮮に「体制安全の保証」を文面で約束したのだ。
トランプ大統領の北朝鮮に関する一連の言葉が本当であれば、北朝鮮は核さえ廃棄すれば幸せになり、国際社会から歓迎されるという意味だが、そうはならないのではないか。
北朝鮮は核疑惑が表面化する前から「ならず者国家」のレッテルが貼られ、テロ支援国家に指定されていた。韓国大統領暗殺を狙って敢行した1983年のラングーンテロ事件では、ミャンマーを訪問中の韓国の副首相を含む多数の閣僚、民間人21人が犠牲となり、47人がけがを負った。87年には翌年にソウルで開催予定のオリンピックを妨害するため、大韓航空機を爆破させ無辜の市民115名(乗員11名、乗客104名)を殺害した。乗客のほとんどは中近東への手稼ぎから帰る韓国人労働者だった。その翌年の1月、アメリカは北朝鮮をテロ支援国家に指定した。2007年に北朝鮮は国際社会に歩み寄る姿勢を示し、「非核化」にも協力する態度を見せたため指定は解除されるが、その後、普通の国家に戻ることはなかった。
2010年には韓国海軍の浦項級コルベット「天安艦」を攻撃、沈没させた。この攻撃では韓国の若い兵士46人が死亡した。事件発生後北朝鮮は関与を否定したが、韓国・英国・米国・オーストラリア・スイスの専門家からなる軍と民間の合同調査団は、「天安艦は北朝鮮による魚雷の攻撃を受け沈没した」と断定した。
北朝鮮のテロは韓国だけに向けられたものではない。隣国、日本から一般市民を拉致し、いまだに拉致被害者を匿っている。その体制を金正恩委員長は継承しているのだ。
アメリカ政府は昨年11月、「北朝鮮は核による破壊の脅威を世界に与えていることに加え国外での暗殺を含む国際的なテロ行為を何度も支援した」と糾弾、北朝鮮をテロ支援国家に再指定した。
記者会見に臨んだトランプ大統領は、その理由を「残忍な体制を孤立させるためのわれわれの最大限の圧力キャンペーンを支援するものだ」と述べた。「国外での暗殺支援」とは、北朝鮮が金正恩委員長の異腹兄弟、金正男をVXガスで殺害したことを指すものとみられる。
しかし、ここに来てアメリカの北朝鮮認識に変化が見られた。北朝鮮を2度訪問して金正恩委員長に会ったマイク・ポムペイオ米国務長官は、北朝鮮が核プログラムの完全な解体に同意したとして体制保証を口にした。5月13日、FOXニュースとCBS放送に立て続けに出演したポムペイオ長官は「北朝鮮が核プログラムを完全に廃棄すれば米国の大規模民間投資が許され、(住民は)肉を食べることができ、健康な生活を営むことができるだろう」と話した。
これは北朝鮮の変化を促すためのアメリカの戦術なのか、それとも核さえ捨てれば本当に北朝鮮を支援して豊かにするつもりなのかは、今のところはっきりしない。
明らかなのは、北朝鮮はトランプ大統領の好意やポムペイオ長官の支援約束を喜ばないということだ。北朝鮮が望んでいるのは、国民の生活改善より体制維持のための、北朝鮮式の経済再建だ。金正恩の特使としてホワイトハウスを訪問した金英哲労働党副委員長はトランプ大統領に、現在建設中の北朝鮮元山地域のリゾート地のカジノへの投資を要請したという。
餓えにあえぐ国民を腹いっぱい食べさせることより、手っ取り早い方法で外貨を獲得し、体制維持費用に回す算段ではないか。
北朝鮮人民が豊かで健康な生活を営むことができれば、金正恩は喜び、核を廃棄するだろうと思うのは北朝鮮という国家を知らないからであり、幼稚な発想としか言いようがない。「革命は一般的に絶対貧困と最悪の経済状況より経済的条件が向上した状況で発生する」(フランスの政治学者、トクヴィル)ことを北朝鮮も知っているはずだ。90年代後半、北朝鮮では100万人単位の餓死者を出すが、政権は金日成主席の遺体安置のための「太陽宮殿」造りに9億ドル近くを費やした。そのお金で中国から食糧を輸入していたら住民は飢え死にせずに済んだはずだ。しかし、そのような措置を取らなかったのは、亡くなった首領の遺体を数百万人の住民の命より大事にする体制だからだ。
エネルギーが絶対的に不足している北朝鮮では、いまでも数万カ所もある金日成と金正日の銅像、壁画を照らす照明だけは如何なる手段をつかってでも消さないという。
このような北朝鮮の体質がここ数か月で様変わりしたという証拠は何もない。北朝鮮は依然と首領一人のために人民も国家も存在する独裁体制であり、国家の資源はこのような体制維持に優先的に回される。北朝鮮が求める体制安全の保証とは、金正恩中心の「体制」、すなわち金正恩の保護を意味するものだ。
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■ 李相哲氏 1959年、中国・黒竜江省生まれ。両親は朝鮮半島出身。中国紙記者を経て、上智大学大学院博士課程修了(新聞学博士)。南北朝鮮の政情分析に定評があり、著書に『金正日秘録』など。日本国籍。